浦上宗景 美作・備中に覇をとなえるも宇喜多家により・・

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備前・天神山城

浦上宗景は、播磨守護代である三石城主・浦上村宗の子ですが、生没年は不明です。
父・浦上村宗は主君・赤松義村を下克上にて討ち、戦国大名として名乗りを上げていました。

1531年、管領・細川高国に味方していた浦上村宗は、細川晴元・三好元長・赤松政祐と、天王寺の戦いに挑みましたが討死します。(大物崩れ)

浦上宗景(うらがみ-むねかげ)は、討死した浦上村宗の次男だったようで、家督は一族の浦上国秀が後見して、長兄の浦上政宗が幼少にして継いでいます。
しかし、月山富田城尼子晴久の台頭などもあり、1537年、父の仇である赤松政祐との抗争に終止符をうち、浦上政宗は赤松政祐と和睦しました。
そのため、家臣の離反も相次ぎ、ついには尼子氏に圧迫されて、1539年には赤松政祐を奉じて和泉・堺へ逃れる有様となります。
その後、1542年、室町幕府の助力を受けて赤松晴政と共に浦上家は播磨に復帰します。
浦上宗景の動向は不明ですが、恐らくは兄に従っていたと考えられ、浦上氏はの室山城を拠点にして勢力を強め、やがて赤松家から独立をします。


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しかし、1551年、月山富田城・尼子晴久の侵攻を受けると、和睦か徹底抗戦かで、兄・浦上政宗と浦上宗景は意見が別れます。

兄・浦上政宗は、尼子晴久だけでなく、備前・金川城主の松田元輝とも同盟を結び、家臣の浮田国定などが支持しました。
これに対して、浦上宗景は独自の行動を起こし、毛利元就の助力を得て、新たな拠点として備前・天神山城を築いて本拠地にしたとされます。

重臣としては、岡本氏秀、大田原長時、服部久家、日笠頼房、延原景能、明石景親らの名があり、沼城主・中山信正などが味方していますが、浦上被官であった宇喜多能家の孫で、浪人していた宇喜多直家を召し抱えてもいます。

このように、浦上家は分裂し、尼子勢は30000の大軍にて、備前・天神山城や新庄山城などを攻略しました。
1559年には、重臣の宇喜多直家に命じて、沼城の中山信正を誅殺させるなどもし、統制を強化しています。

そうして、浦上宗景は毛利家に従う、備中松山城主・三村家親の援軍を得て、浦上政宗・尼子勢を撃破し、永禄3年(1560年)頃までには、兄・浦上政宗の勢力を駆逐して備前の支配権を握りました。
更に、1561年、尼子晴久が急死すると、宇喜多直家が計略にて龍ノ口城主・穢所元常の首を取るなどし、浦上宗景は勢力を強めて行きました。
そのため、兄・浦上政宗は10年以上敵対した浦上宗景と和睦し、播磨の姫路城主・黒田職隆と縁組します。
これは、浦上政宗の子・浦上清宗と黒田職隆の娘(養女とも?)との婚儀でした。
しかし、1564年1月、室山城にて婚礼を行っている宴席を、赤松政秀が奇襲して兄・浦上政宗の親子は殺害されました。

浦上宗景は、引き続き三村家に従いましたが、宇喜多直家に命じたようで、1566年2月には三村家親を、顔見知りの阿波の浪人・遠藤俊通・遠藤秀清を使って鉄炮で暗殺させます。
そして、翌年には、明善寺の戦いで、宇喜多直家が三村勢を撃破しています。
更には浦上惣領家の浦上誠宗を暗殺し、金川城主の松田元輝・松田元賢の親子、岡山城主・金光宗高などを没落させました。
しかし、宇喜多直家は浦上家で随一の実力者になる結果ともなっています。

その宇喜多直家は、1569年に、織田信長や赤松政秀と結び、浦上宗景に対して反旗を翻します。
しかし、赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・黒田官兵衛に敗北したため、逆に浦上宗景は赤松政秀の龍野城を攻めて降伏させました。
そのため、宇喜多直家は浦上宗景に謝罪して降伏しましたが、特別に助命され、帰参も許しています。

なお、毛利家が東に進んでくると、浦上宗景は足利義昭・織田信長に仲裁を頼も、毛利輝元と和睦しました。
また、1573年12月には、織田信長の仲立ちにて三木城主・別所長治とも和解し、織田家から備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められました。
しかし、御着城小寺政職や別所長治らの反感をかったのをみた、宇喜多直家は、浦上政宗の孫・久松丸を岡山城にて擁立し、1574年3月に再び反旗を翻します。

これに対して浦上宗景は、三村元親、美作・勝山城主の三浦貞広など同盟して対処しますが、今回は、宇喜多直家の調略も慎重であり、家臣の中にも宇喜多家に味方する者が出ました。
1574年4月、備前・天神山城の戦いが始まり、最初は備前鯛山にて宇喜多勢が勝利しています。

宇喜多直家は小早川隆景に書状を送り、毛利輝元は、織田勢になびいて毛利家に反抗してきた浦上宗景を倒すべく、宇喜多家を支援します。
しかし、長年、宇喜多家と戦ってきた三村元親は、宇喜多直家と同じ同盟者となるのを拒んで織田信長に鞍替えしたため、1575年6月には毛利勢が三村元親を攻め滅ぼし「備中兵乱」を終結させています。

毛利の後ろ盾を得た宇喜多直家は攻勢に出て、備前・天神山城からほど近い、日笠青山城の日笠頼房や、備前佐古谷城を攻撃しました。
浦上宗景は家臣らの離反を食い止められず、ついに本拠である備前・天神山城に籠城する以外の選択肢を失います。
明石行雄(明石景親)、岡本氏秀・岡本秀広、延原景能、大田原長時などの重臣も浦上家を見限り、1575年9月、備前・天神山城は陥落しました。
宇喜多端城があった場所は、わかっていません。

一方、毛利家に臣従した宇喜多直家は備前のぼぼ全域、美作東部、播磨西部など大きく所領を得ました。

浦上宗景は城から脱出し、小寺政職のもとに逃れると、は織田信長が派遣した荒木村重の支援を得て「宇喜多端城」を奪回し、以後、本拠にしたと言いますが、没落しました。

そして、浦上宗景は、何度も上洛して織田信長に支援を要請しますが、協力を得られず、1578年12月頃には、宇喜多家に反対する勢力とともに、なんと備前・天神山城を奪還しています。


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しかし、記録が残っていないので、よくわかりませんが、1579年4月には、この反乱は鎮圧されたようで、宇喜多端城も失った模様です。

その後の浦上宗景に関しては、史料がなく、没年も不明です。
天神山記によると、黒田長政の誘いを受けて、筑前に赴いて出家しましたが、80歳くらいで死去したとあります。

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