赤松政秀~土器山の戦いと母里武兵衛・母里小兵衛

土器山の戦い


1569年6月頃、青山の戦いの翌月にあたるが、赤松政秀が再び兵3000を率いて姫路城へと攻めて来た。

黒田官兵衛が仕える小寺政職は殆どの兵を連れて、赤松義祐と置塩城に籠城。

攻めて来た赤松政秀は小丸山に布陣。
対する黒田官兵衛は、夢前川東岸の土器山に布陣したとされる。
現在、土器山(かわらけやま)と言う地名(山名)は存在せず、正確な場所は不明だが、現在の国道2号・夢前橋付近で戦闘になったようだ。


赤松政秀は黒田官兵衛が手を打つ前にと、先に夜襲を掛けた。
対する黒田勢は手勢僅か300程度しか率いておらず、突然の急襲に壊滅の危機まで追い込まれたが、黒田官兵衛は150人を指揮して、何とか持ちこたえた。
しかし、この戦闘で叔父の井手友氏(黒田職隆の弟)や、重臣の母里小兵衛らを失った。
 
夜が明けると英賀城主・三木通秋の加勢280人(得能与左衛門、有本兵庫、頭坊大学、毛度志呂武左衛門)と、姫路城から黒田官兵衛の父・黒田職隆が姫路城から救援(後詰)として到着。
三方向を囲まれた赤松政秀は、昼頃に小丸山へ退却し、黒田勢は休息することができたが、周りを見渡すと何人討死したかもわからないくらい、甚大な被害となっている事も分かった。

黒田官兵衛は、このまま敵の攻撃に対して防御一方でも、大軍である赤松政秀勢に追い込まれ、更に被害が増えるだけと考え、すぐに動ける者を集め、小丸山強襲部隊を編成した。
既に戦死していた母里小兵衛の子・母里武兵衛は、重症を負っていたが、黒田官兵衛は幼馴染で共にここまで成長してきた母里武兵衛にも、決死部隊に加わるよう促したとされる。

母里武兵衛が「これほどの傷を負った者に出陣しろと言うとは死ねという事か?」と問うと、黒田官兵衛は「恐らくそうなるだろう」と返事したと言う会話は、あまりにも有名だ。
 
強襲軍は、黒田官兵衛が先陣を切って先鋒となり、父の黒田職隆が殿(しんがり)と言う布陣で、その日の夜を待って、赤松政秀の陣がある小丸山へ夜襲を掛けた。
赤松政秀は、昨晩の戦いで、黒田勢は大損害を受けているとして、油断していたようで、ほとんど無傷の3000に向かって、夜襲してくるとは考えていなかった。
その為、黒田勢の夜襲を受けるとたちまち大混乱に陥り、逃亡する兵が相次いだと言う。
黒田勢は、敗走する赤松勢を更に追撃し、夢前川から龍野城の中間あたりの太子町あたりまで追いかけて、龍野勢の軍奉行である衛藤但馬守忠家の他、島津蔵人忠之、島津源兵衛重宗、島津兵庫助、佐用弥五郎、高瀬刑部、高瀬宗右衛門ら数百人を討ち取ったが、黒田勢の損害も死傷者287人という、ひどい状況であったため、それ以上の追撃も断念。
母里武兵衛も重傷の身を押して先頭を切って赤松軍に斬りかったとされ、奮戦の末に7本の槍に貫かれ壮絶な死を遂げたと言う。

戦いの前に母里小兵衛は、黒田職隆に「もし、私が死ねば、我妻をめとり、息子(母里雅楽助、母里武兵衛)の事をお願いしたい」と遺言していた為、妻を亡くしていた黒田職隆は後妻にと、母里小兵衛の妻を迎えたとされる。
この母里氏は、一族の男子24人が全員死亡するという悲劇的な状況であった為、母里小兵衛の嫡男・母里雅楽助義時(妻鹿城主)は、母里一族の死を悼み武士を辞めて京都へ移住した。(無理な戦いを強いられて一族の多くを失った為、怒って出奔したとする説もあるが、後に筑前国へ招かれて黒田家に仕えている。)

黒田官兵衛は、戦いのあと、母里家を絶やさないため、小寺家の家臣・曽我一信と母里氏の女の間に出来た子であった曽我太兵衛に母里氏の家督を継がせ、あの母里太兵衛(母里友信)が、黒田家の家臣に加わったのだ。

なお、龍野城と姫路城の距離は僅か15kmくらいで、龍野城と御着城でも24km程度と、非常に狭い範囲で、覇権争いをしていた事が良く分かる。

赤松政秀は、何とか無事に居城・龍野城へ戻ったものの、敗走を察知した浦上宗景が備作衆を率いて攻め寄せてきた。
赤松政秀にはもはや野戦に討って出るだけの兵力は残っておらず、龍野城にて約6ヶ月間、籠城したが11月に降伏。
これにより領土の大半を浦上家に奪われ、幽閉処分となり、播磨守護赤松家は衰退した。
この頃、宇喜多直家も浦上宗景に降服したが、所領などは安堵されたようだ。

一方、赤松政秀と対立していた置塩城主・赤松義祐は、1569年8月、織田信長の命を受けた池田勝正を大将にした摂津衆・別所安治の侵攻を許し、大塩城・庄山城・高砂城ら、赤松義祐領の城を次々と奪われた。
池田勢は奪った庄山城を本陣として置塩城・赤松義祐と、赤松義祐に協力した御着城・小寺政職を脅かした。
置塩城の赤松義祐には、ひたすら耐えたが、9月になると織田信長は三好家対策の為、池田勝正に撤退を命令。別所安治も兵を退かせた事で、赤松義祐は命拾いをしている。
 
織田信長に抵抗するのは無理と察した赤松義祐は、すぐさま織田家に臣従する使者を派遣し、嫡男・赤松則房を人質として送った。
これにより、赤松政秀と赤松義祐の双方が織田家の勢力下に入り、赤松氏の内紛は終わった。

翌年の1570年11月12日、赤松政秀は何者かに毒を盛られて死亡。暗殺した人物などは謎だが、赤松政秀の死後、龍野・赤松氏は嫡子・赤松広貞が継いだ。
赤松義祐も嫡男・赤松則房に家督を譲り、赤松家は播磨守護職としての権威だけが利用されるだけの存在となった。

黒田官兵衛と共に戦った三木通秋は、熱心な浄土真宗の信者だったため、1570年から始まった織田信長と石山本願寺の石山合戦で、本願寺顕如を援助した。
 
これまで盟友であった赤松家、小寺家、別所家やその重臣、有力豪族らが、続々と織田家へ傾いていた時期であり、黒田官兵衛と三木通秋は疎遠となり、ついには敵対する事にもなる。

なお、黒田官兵衛らの小寺政職は、1575年に織田信長に臣従。それから、黒田官兵衛は全面的に織田信長と羽柴秀吉(豊臣秀吉)に協力することになった。

黒田官兵衛の詳細はこちら
栗山善助はこちら
浦上宗景 美作・備中に覇をとなえるも宇喜多家により

 

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