栗山善助(栗山利安、栗山備後)~黒田家の知恵者

栗山善助(栗山利安)

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栗山善助 (栗山利安) 1550年~1631年8月14日

 黒田氏の家臣で、黒田二十四騎にも数えられる智将。黒田八虎の一人で備後守。
 1550年、播磨国姫路近郊の栗山村に生まれたが、父・母の名は不明。幼名は栗山善助であり、早くから当時の小寺家姫路城代の黒田家に仕えた。
 栗山氏はもともと、赤松氏の支流だったが、足利尊氏から現在の姫路近郊栗山の地を賜り、栗山を名乗ったと伝えている。

 1565年、15歳の時に黒田官兵衛(黒田孝高)の側近となり、武士としての作法や礼儀などの教育を受ける。
 正直者にして健気であったことから、黒田官兵衛が「善助」と命名したようだ。 

 17歳の時、83石となり、新たに黒田家に出仕してきた母里万助(母里太兵衛友信、母里友信)の世話を命じられている。
 将来を嘱望した黒田官兵衛は「栗山善助を兄とし、栗山善助は母里太兵衛を助け、母里太兵衛は栗山善助の言いつけに背くな」と命じ、2人に義兄弟の契りを結ばせたとされる。
 
 1569年8月、栗山善助(栗山利安)は青山・土器山合戦にて初陣し、赤松政秀勢の芝原弥十郎と、大きな鎌を持った桑原左衛門を討ち取ると言う、首級2つを挙げた。
 また、英賀での戦いにおいて鎖鎌を良く使う房野弥三郎と対決し討ち取っている。

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 1578年、織田信長に反逆した荒木村重の説得に当たるために有岡城に向かった黒田官兵衛が捕われた際には、栗山善助と母里太兵衛、井上九郎右衛門が商人に扮して黒田官兵衛を救出している。
 黒田官兵衛はこれに感謝し、栗山善助に秘蔵の馬を与えた。
 
 1582年、明智光秀の謀反で織田信長が本能寺で横死すると、明智光秀を討ち取った羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下人に駆け上った。

 1586年に、のち黒田一成に嫁ぐ長女が誕生したとされているので、これより前に栗山善助は正室を迎えたと考えられるが、正室の名前などは不明。

 1588年には白米城主となり豊前に6000石を知行。

 1593年に黒田官兵衛が隠居すると、子の黒田長政に仕えて、母里太兵衞らと共に朝鮮出兵にも参加し、晋州城の戦いで功績を挙げた。

 1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成の動きを察知して、大坂屋敷に居た黒田家内室の2人(光姫栄姫)を、当時の領国・豊前中津まで脱出させた。そして、黒田官兵衛(黒田孝高)と共に豊後国に出兵し、栗山善助は別働隊を指揮。大友義統と戦い(石垣原の戦い)、武功を挙げている。
 戦後、黒田長政が筑前福岡藩に移封されると、筆頭家老に列せられ15000石の所領として、左右良城(真寺城)主となり、栗山善助は黒田家一門衆を除いて最も信頼できる家臣になっていた。

 栗山善助は派手な事が嫌いだったとされ、日頃から倹約に励んでいたと言う。ある時、家臣が高い馬を購入すると聞くと「馬は高くても2頭分の働きはしない」と言い、無駄遣いをしないよう促したと言う。

 1615年、大坂の両陣では嫡子の栗山大膳(栗山利章)が、黒田長政の嫡子・黒田忠之に従って出陣し、栗山利安は国元の留守を任された。

 1617年に栗山善助は隠居し、1623年に黒田長政が没すると剃髪して一葉斎卜庵と名乗り、1631年に死去。享年82。

 栗山善助(栗山利安)は没する前日より意識不明となり、ただ呼吸をするばかりであったが、突然「馬よ!鉄砲よ!彼方に敵が出た。味方の人数を揃えてあの山に鉄砲を放て!」と大声で叫びだすと、その明け方に没したと言う。

 なお、家督を継いだ子の栗山利章は黒田長政の遺言を聞いた家臣の1人だったが「黒田騒動」の張本人として知られる。

 栗山利安の正室の名前などは不明だが、二男八女がいたという。

 長男は、1591年生まれの栗山大膳(栗山利章)だが、福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と対立し、江戸幕府に「黒田忠之に謀反の疑いがある」と訴えるお家騒動を起こした。(黒田騒動)
 江戸幕府による裁決の結果、「栗山利章は乱心した」ということで、栗山利章を陸奥の盛岡藩預かりとされ、黒田家の改易は免れた。
 実質流罪ではあったが、4里四方お構いなしで、終生150人扶持との破格の待遇で、罪人扱いされることは無く、盛岡藩も手厚く迎えたようだ。
 盛岡在府中は、同様に対馬藩から盛岡藩預かりとなった無方規伯(方長老)とも親交があり、共に盛岡城下の文化振興に寄与したと言う。
 1652年に死去。墓所は盛岡城下(現・岩手県盛岡市)にあり、無方規伯による忠節を讃えた碑がある。
 栗山利章の子・栗山利周は、黒田家より招聘も受けたが断り、子孫及び臣下は盛岡藩に定着したようだ。

 長女は三奈木黒田家の祖である、黒田一成(加藤三左衛門)に嫁いだ。この黒田一成は、黒田官兵衛が有岡城で牢獄に入っていた際に、色々と世話してくれた看守・加藤重徳の次男で、牢を出たあと、黒田官兵衛の養子として養育した武将だ。板東英二の奥さんも、三奈木黒田家の子孫にあたる。
 
 二女は黒田官兵衛の妹婿・三木清閑の子である、1500石の三木了清(三木吉十郎了清)に嫁いだ。
 しかし、三木了清らは、正室が黒田騒動を起こした栗山利安の2女だと言う事で、家族は京都に移らされたようだ。

 三女は小河政良に嫁いだ。小河政良は小河内蔵允の従兄弟。三河、織部、久太夫と称した。江戸城築城の黒田家分担の普請の際、真鶴半島での石切の奉行だったのが、この小河政良である。

 四女は伊福市太夫に嫁いだ。父の伊福内蔵助は栗山氏に仕えており、黒田騒動後、伊福市太夫と弟の伊福甚右衛門は福岡を離れて、久留米の有馬氏に仕えたようである。
 伊福市太夫は最終的に300石与えられ、弟の伊福甚右衛門は200石与えられるが、島原の乱で討死している。

 五女は豊後・松尾城代の中間統種に嫁いだ。中間統種の子、中間忠胤には栗山利章の娘が嫁いでいる。
 なお、中間統種は、黒田氏に臣従すると、黒田姓を許され、黒田統種は黒田長政が筑前・福岡城主となった際に小石原城主となっている。
 
 六女は加藤成忠に嫁いだ。加藤成忠は黒田一成の実兄で加藤吉成(小西行長の家老)の子。

 七女は黒田利隆に嫁いだ。黒田利隆は黒田利良の長男。父・黒田利良と弟の岡田正興は島原の乱で討死している。

 八女は上原与平次(または儀太夫)に嫁いだが、詳細は不明。

 現在、栗山善助(栗山利安)のご子孫が中津市京町の「栗山堂」にて、外郎・ういろう で有名な和菓子を製造販売している。

■年齢差

 黒田官兵衛 1546年生
 光姫    1553年生 - 7歳
 黒田職隆  1524年生 +22歳
 黒田休夢  1525年生 +21歳
 栗山善助  1550年生 - 4歳
 母里太兵衛 1556年生? -10歳
 小寺政職  1517年生 +29歳
 織田信長  1534年生 +12歳
 羽柴秀吉  1537年生 + 9歳
 竹中半兵衛 1544年生 + 2歳
 荒木村重  1535年生 +11歳

井上九郎右衛門 (井上之房) ~黒田家4代に仕えた家老
黒田官兵衛とは 黒田家とは~名軍師・黒田孝高、黒田如水の詳細紹介
黒田光姫 (櫛橋光) (くろだてる)~黒田官兵衛の正室

 

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