保科栄姫の解説~黒田長政の正室になった保科正直の娘(名奉行・大岡越前の大叔母)

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保科栄姫とは

保科栄姫(えいひめ、1585年~1635年1月12日)は、保科正直の娘で母は久松俊勝の娘・多劫姫。

ここでは、先に保科氏について記載しておきたい。
栄姫の父である保科正直は信濃の武将。
保科氏は高遠城主・諏訪頼継の家老だったが、1551年、甲斐の武田信玄が伊那に侵攻すると諏訪頼継は排除され、保科氏ら旧臣は武田家に臣従することで所領は安堵された。
このようにして、保科正直は武田信玄・武田勝頼に仕え、先方衆として活躍した。

保科正直の実弟・保科正俊は、跡継ぎがいなかった武田の名将・内藤昌豊(内藤昌秀)の養子になり、上野・箕輪城主となっている。

1582年、織田信長の武田攻めの際には、最初、保科正直は飯田城に坂西織部らと籠城したが敗走し、その後、高遠城に入ると仁科盛信を助けて頑強に抵抗。
3000の武田勢は織田信忠からの降伏勧告にも応ぜず徹底抗戦したが、さすがに50000の織田勢に押されて高遠城が落ち、仁科盛信は自害。
保科正直は実弟・内藤昌月を頼って上野・箕輪城へ逃れたようだ。
その後、武田家はほとんど戦わずに家臣が次々に脱落し、武田勝頼も天目山で自刃して、あっと言う間に武田氏は滅亡した。


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明智光秀による本能寺の変で、織田信長が倒れると、内藤昌月と保科正直は、小田原北条氏に帰属。
佐久小県より諏訪へ進軍の北条氏直の部隊に、保科正直・保科正光親子らも加わり諏訪方面に進軍した。
真田昌幸の入れ知恵もあった?ようで、保科正直・保科正光らは友野十郎左衛門と、内藤昌月の家臣500人を借りて、ほぼ無人だった高遠城奪還に成功し、高遠城に入った。高遠城から逃亡して約5ヶ月後の事だ。
その後、甲斐で徳川家康が優勢になると、依田信蕃木曾義昌らが徳川家康に転じ、保科正直ら信濃国衆も徳川家康の配下となり、正式に高遠城主として御朱印を得て25000石となった。
徳川家康が、旧武田家臣を厚く迎えていたことも背景にあっただろうが、真田家並に、保科家も戦国の世を巧みに生き抜いたと感じる。

1584年、保科正直は徳川家康より多却姫を正室に迎えた。多却姫は徳川家康の妹で11歳年下。二男四女をもうけたのだが、翌年、1585年に栄姫が誕生したのだ。
 
1590年(天正18年)保科正直の子・保科正光は下総国多胡で10000石を与えられるなど、保科氏は徳川家康の元で繁栄した。
初代・会津藩主となった、保科正之徳川秀忠の4男(庶子)だが、保科正光が預かり、保科正光の子として養育した事でも知られ、会津23万石の祖となったのだ。
保科正之は、江戸幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯、保科姓を通した。

だいぶ話がそれたが、栄姫の話に戻る。

保科栄姫の母である多劫姫(たけ)の母は、徳川家康の母である於大の方。要するに、栄姫は徳川家康の姪にあたる。また、栄姫は名奉行・大岡越前の大叔母にもなる。

関ヶ原の戦いの前である1600年6月6日、保科栄姫(16歳)は、中津12万石の黒田長政(33歳)の正室となった。
豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康に接近していた黒田家との絆を強くしたいと言う徳川家康の意向で、のち栄姫は化粧料として豊後国玖珠郡内に1000石賜っている。
しかし、嫁いだ6月6日は、大阪城西の丸にて、会津征伐における評定が開催された日でもあり、間もなく黒田長政も徳川家康に従い出陣すると言う慌しさの中であった。

黒田長政(33歳)は、栄姫を正室に迎える前に、15年連れ添った蜂須賀正勝の娘・イト(豊臣秀吉養女・糸姫)を正室としていたが、女の子を残して離縁をさせてまで、継室に栄姫(16歳)を迎えたとされる。
結果として黒田家にとって徳川家康との所縁も深い、栄姫を迎えたことは栄達であった。


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関ヶ原の戦いでは、黒田官兵衛の正室・光姫と共に、大坂天満の黒田屋敷に滞在していたが、石田三成による妻女人質計画があった際、栗山善助母里太兵衛が大坂から脱出させ、中津まで逃れる事に成功している。ちなみに、この脱出劇が、栄姫が初めて中津城に赴いたと言う事にもなる。

なお、この脱出劇には、いくつかの逸話が残されている。
夫人を1人ずつ俵に詰めて、商人に化けた母里太兵衛がその俵を天秤棒で担いで屋敷を出たとする話。
母里太兵衛が病人のふりをして乗物に乗って番所で迫真の演技をしてみせ、それを何日も繰り返すと、万人が気の毒がって乗物の中を確認しようとしなくなったところを、毎晩一人ずつ夫人を外に連れ出したとする話。
二人の奥方を連れ出した後、屋敷には影武者を置いて、石田勢の目をごまかしたと言う話もある。

屋敷からの脱出はうまく行っても、それからの逃亡はまた困難を極め、連れ出すまではうまくいったが、目指すは九州・中津と遠い・・・。
木津川の舟番所をどうやってやり過ごすか栗山善助らが考えているところに、玉造の方から火の手が上がった。細川忠興の妻・細川ガラシャ(明智玉)が自害の上、屋敷に火を放ったのだ。
大坂城内は大騒ぎになり、舟番所の警備が手薄になった隙に、母里太兵衛は奥方たちを船底に隠して川を下り、別の大きな船に乗り換えて、海路で中津に向かう事ができた。
 
栄姫と黒田長政との間には黒田忠之(福岡藩2代藩主)、黒田長興(秋月藩藩祖)、黒田高政、黒田徳(榊原忠次室)、黒田亀子(池田輝興室)の三男二女を設けている。


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黒田忠之が、古くから黒田家に仕える家柄の家臣よりも、自分が寵愛した人物も重要職に取り立てた事に反発した栗山大膳(栗山善助の子)が起こした「黒田騒動」の際には、弟の保科正貞を通じて幕府に働きかけもした。
黒田騒動を乗り切った後の1635年、既に病床にあったが、次代藩主である孫・黒田吉兵衛(黒田光之)の将軍・徳川家光謁見に随行し、その後間もなく死去。西久保の天徳寺に葬られた。
なお、黒田長興は母の菩提を弔うために、秋月山浄仙院大涼寺(朝倉市秋月)を建立している。

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