保科正之~数々の良政を敷いた会津藩主・会津中将


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保科正之(ほしなまさゆき)は、第2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として、1611年5月7日に生まれた。幼名は幸松。

母は2説あり、1つは徳川秀忠の乳母・大姥局の侍女である北条家旧臣・神尾栄嘉の娘。
もう1説は、板橋郷竹村に住む大工の娘・お静の方(志津、後の浄光院)。

徳川秀忠の正室はお江の方(お江与)であり、正室への体面上からも庶子の出産は江戸城ではできない。
そのため、当時、徳川家康の保護により江戸城北の丸にいた武田信玄の次女・見性院(穴山信君の未亡人)が、大姥局と仲が良かったことから世話をし、所領であった大牧村(浦和)にてお静の方は幸松を出産したと言う。
そして、幸松は見性院や、八王子の松姫(信松尼)によって養育された。

この庶子が生まれたことは、徳川秀忠側近の老中・土井利勝や井上正就など、幕府でも数名のみしか知らない秘密で、会津松平家譜では武田の娘に預けられたのは1613年頃としている。

お静の方も命を狙われることもあり、母と共に裏長屋で暮らしたともある。

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なお、見性院や松姫の縁で、武田家臣だった信濃・高遠藩主・保科正光が1617年に幸松を預かり、後継者として養育することになり、身の安全も保障される事となった。

この養父・保科正光は、逃げ弾正・高坂昌信、攻め弾正・真田幸隆と並んで、槍弾正と称された猛将・保科正俊の孫にあたり、父・保科正直とともに武田勝頼の死後、徳川家康に仕えると小牧長久手の戦い上田城攻めにて活躍し、関ヶ原の戦いの軍功により高遠城を与えられ、大坂の陣でも軍功を挙げていた。
 
養子に入る際、幸松(保科正之)は、すでに左源太という養子がいることを知り、駄々をこねて母・お静の方を困らせたと言うが、母の説得を受けて高遠城に入ったと言う。
高遠城三の丸に新居を与えられると、母と一緒に育った。
また、保科正近が養育係となり、建福寺で儒学などの講義を受け、川では甲冑を着けて泳ぎの練習もしたと伝わる。
厳しい寒さの冬でも、公の行事の時以外は素足で過ごして素振りを行ったと言う。
そして、領民の気持ちを考えて行動することこそ、藩主の使命であることを、幸松は学んでいった。

1629年9月には、駿河・府中城主である兄・徳川忠長と初対面すると気に入られて、祖父・徳川家康の遺品を賜った。

1631年10月7日、養父・保科正光が死去したが、跡継ぎには保科正之を指名し、養子の保科左源太には生活に困ら無いよう十分な所領を与えたと言う。

こうして21歳で3万石の高遠藩主となると、諱を保科正之と改め、正四位下左近衛中将、肥後守に叙任されると、以後は会津中将と称された。

正室は菊姫(内藤政長の娘)、継室は於万(藤木弘之女・聖光院)、側室は牛田氏、沖氏、沢井氏がいる。

1632年1月、自分の子と認めないまま父・徳川秀忠が薨去すると、長兄・徳川家光が3代将軍に就任した。

徳川家光が身分を隠して鷹狩りに行き、目黒・成就院にて休憩した際、僧侶から「肥後守殿は今の将軍家の弟君である」と聞かされたと言う。
最初驚いたが、血を分けた弟ではなく家臣として仕えようとする保科正之の謙虚な姿を見ると、可愛がり重用する事となる。

1634年7月16日、徳川家光が上洛する際には、保科正之も同行し侍従に任官された。
1636年7月21日には、出羽・山形20万石にと大幅な加増移封となり、1643年7月4日、会津藩23万石にと更に加増移封となった。
高遠から多くの家臣が山形・会津と移り、その中に山本勘助を先祖と称する、山本覚馬山本八重といった幕末の会津藩士も存在するに至ることとなった。
田中土佐を輩出した田中家も、武田家時代から保科家に仕えた家臣であり、梶原平馬内藤昌豊の流れをくむ名門である。
このように藩祖・保科正之の子孫が、幕末まで会津藩主を務めている。

1651年、死の間際となった徳川家光は保科正之を呼んで「肥後よ宗家を頼みおく」と遺言し、4代将軍・徳川家綱11歳の後見を任されている。
そして、末期養子の禁の緩和(家の断絶防止のための緊急縁組を緩和)、殉死の禁止、大名証人制度の廃止などの改革を断行するなど、ほとんど江戸にて幕政を担ったため、会津に入ったのは1647年と晩年の数年間のみであったと言う。
※大名証人制度とは大名は妻子を江戸におき、重臣も子供を人質として江戸に送っていたが、その重臣からの人質を保科正之は廃止した。

1657年、明暦の大火で江戸城の天守が焼失した際には、無駄な天守再建は不要と訴え、民衆の生活復興に尽力した他、玉川上水を開削して江戸市民の飲用水の安定供給に貢献もした。

結核を患い、また晩年には失明したと言うが、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と共に、江戸初期の三名君と呼ばる。

1668年、保科正之は「会津家訓十五箇条」を定め、第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記したため、幕末の会津藩主・松平容保もこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで徳川家の為に新政府軍と戦った。

1669年、嫡男・保科正経に家督を譲ると隠居。

1672年12月18日、江戸三田の会津藩邸で死去。享年63。

墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあり、1675年、墓所に隣接する形で土津神社の祭神となった。

なお、保科正之は江戸幕府から松平姓を名乗ることを勧められたが、養育を受けた保科家への恩義のため、生涯保科姓を通したと言う。

高遠城~織田信忠が総攻撃して陥落させた武田の重要拠点
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  1. この人を何年おいかけたことか・・
    眼が痛いのに読んでしまいまして、ついでにコメントしちゃいました。
    だって会津大好きですから。

    この家訓が会津を滅ぼしたみたいに言われてますが
    こんなの破っちゃえばよかったんですよね。
    つらつら15個も書いちゃったけど要は、
    僕(藩祖)の姿を見なさいよ。という事だったと思うんです。

    姿を見る前に文章を代々教え込んじゃったことがそもそもの誤り。
    容保は、武士道を貫き本当の尊王に励んだ。
    それは中々出来る事ではありませんが
    庶民を巻き込んでしまったことは大問題!

    まあ容保の身としては
    自分は養子で、家臣は武田の遺臣(徳川の遺臣でもある)。
    ガッツリ周りをガードされて
    どうしようもないという悩ましい選択だったと思うのですが
    ココは勇気をだして首級だして済ますしかなかったと思います。
    (そうなると今度は家臣、家臣の家族全員の自害しかねませんけど)
    まあ、それを西軍が認めるか認めないかの問題がありますが(それに行ったのは世良だし)
    容保の処分に対しては、高田さんはどうお考えでしょうか?

    会津の悲劇は庶民の悲劇。
    立派な武士道の陰には、重税に泣き、家は燃やされ、戦争遺児一杯状態があったことも忘れてはいけません。
    むやみやたらと神輿に担ぐのは違うと思います。

    それも飲んだうえでの会津が好きと言えたら本物ですかねえ(笑)。

    • 高田哲也
    • 2015年 4月 10日

    寺田様、お忙しい中、またお疲れの中、熱いコメントありがとうございます。
    その昔、私の先祖?は、須賀川城主・二階堂さんのもとにも名が見えまして、余り調べたことはないのですが、隣は会津と言うことで、少なからず縁がございます。
    郡山のほうの寝ている土地は、除染やらなんやで大変なのですが・・。
    二階堂さんも滅亡しましたので、負けた方に同情してしまうと申しましょうか、そんな事からも、正直に申し上げまして、幕末に関しては「白虎隊」から入りました。
    さて、松平容保さんは、養子で藩主になった訳ですので、それなりに優秀な藩主であったと存じますが、時代に翻弄されたとしか言いようがないと思います。
    松平容保さんの記事は淡々と標準スタイルで記載してしまいましたが、鳥羽伏見で負けて帰って来て、もう徳川幕府の為に行動しなくてもよかったですよね。
    しかし、幕府が江戸城を明け渡しても、最後まで新政府軍に対して徹底抗戦したと言う意気込みは、薩摩・長州のやり方に一石を投じたと言え、非常に感銘を受けます。
    もっとも、新政府軍もヤマトタケルの東征のようなもので、武力を以て徹底的に叩いたわけですが、残念ながら会津藩も戦術が悪すぎました。
    白河城にもっと戦力を集中させ、新政府軍を食い止めていれば、様子見していた奥羽越列藩同盟が機能したかも知れないですよね。
    若松城下まで攻め込まれて籠城し、玉砕するのでは無く、降伏したと言う事は、松平容保さんは残った家臣や、照姫らの命を救う判断をしたと存じますので、自分の首が討たれる覚悟はできていたと思います。
    しかし、新政府がその命を助けたと言う事は、武士の誇りと申しましょうか「忠義」を会津が全うしたうえだったと、理解していたように思います。
    萱野権兵衛さんにとっては不幸な事となってしまいましたが、少なくとも会津藩が最後まで忠義を大切にしたので、赤穂浪士のファンがいるように、会津のファンがいるのだと言う事でしょう。
    でも、できることなら戦争は良くありません。
    寺田様のように会津を良くお調べになられている方であればお分かりのように、戦争をする軍人(武士)は良いとして、本当に被害を受けるのは戦場となった領民(国民)だと、つくづく感じる典型例が「会津戦争」ですよね。
    将来、同じ過ちを繰り返さないためにも、このように過去の歴史から学ぶと言う事は、私がこのようなサイトを運営している根底でございます。
    そういえば、白虎隊取り上げていないので、いつになるか分かりませんが、頑張りたいと存じます。

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