大姥局の解説~徳川秀忠を生涯支え続けた乳母

大姥局

大姥局とは

大姥局(おおうばのつぼね)は、戦国時代女性で、戦国時代の大永5年(1525年)、今川氏真に仕えた武将・岡部貞綱の娘として生まれました。
将軍の養育係から身を起こし、江戸幕府の大奥で権勢を極めた女性と言えば、一般的には徳川家光の乳母・春日局(斎藤福)が知られています。
しかし、春日局が台頭する以前にも将軍の乳母にして大奥を取り仕切った人物がいました。
その人物こそ、本稿で紹介する大姥局(おおばのつぼね)です。
大母局、ないしは岡部局の別名を持つ大姥局は母の名は不明ですが、大姥局には長綱と貞次と言う兄弟がいて、そのうち長男の長綱が徳川家康配下の旗本として1500石の身分になった事が判明しています。


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後に江戸幕府内部でも大きな影響力を誇った大姥局(以下、大姥と表記)は、少女時代から若き日にかけての動向は謎が多く、結婚した時期は不明ですが父の貞綱と同様に今川の臣下だった川村重忠という武士を夫として荘八と長起の兄弟を儲けています。
この重忠は若き日の家康に世話役として仕えたのち、今川衰退の際には北条氏に仕え、その後も武田氏の臣下だった穴山梅雪と主君を変えており、大姥も夫と共に各地を転々としていました。

川村重忠の没後、大姥は駿河に戻って子供達と暮らしていましたが、豊臣秀吉からの招聘を受けて上方へ行く事となり、その地で彼女と出会ったのが生涯の主君である徳川秀忠です。
招聘の時期は不明ですが、幼い秀忠の乳母にと望まれていたことから、秀忠が生まれた天正7年(1579年)以降と思われます。
また、大姥と夫の重忠に面識があった家康が秀吉に願い出てスカウトされたとも言われています。

それ以降、大姥は秀忠に仕える事となり、慶長8年(1603年)に江戸幕府が成立して以降は創設されたばかりの大奥で活躍し、化粧領として武蔵国内に2千石を賜ると言う厚遇を受けるようになりました。
慶長13年(1608年)には自らの発願と寄進で池上本門寺の五重塔を建立させており、天然痘にかかった秀忠の快癒祈願とその感謝の意味で行われたとも、将軍就任の御礼と秀忠30歳を記念したものとも言われています。

幼いころから育てた秀忠に尽くした大姥局は、慶長18年(1613年)1月26日に89歳でその波瀾に満ちた生涯を終えました。
生母を幼くして失った秀忠は彼女を母のごとく愛慕しており、望みはないかと尋ねたところ大姥は、「家康公のお言葉をしっかりと守ってくだされば、私めが望む事はありません」と願うばかりであったと言います。


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大姥局は時の権力者の世継ぎに関与して力を持ったことから、北条政子阿野廉子日野富子などのような権謀術数や厳格さで猛威を奮う猛女として描かれる事が少なくありません。
前者は『女帝 春日局(演:草笛光子さん)』で強調され、後者は『江~姫たちの戦国~(演:加賀まり子さん)』に於いて濃厚に描かれ、ややネガティブな印象を彼女に抱いている方も多いことと思われます。

しかし史実の大姥は先述したように、寺院への寄進も他の権力者のようにアピールや人脈目的ではなく秀忠の幸せを願ったものであり、自分の侍女と秀忠との間に生まれた男子(のちの保科正之)を秀忠の正室である崇源院の圧力に屈せず守り抜いています。
一方、流刑に処された我が子の扱いに関しては、自分が死んだからと赦免などしないようにと秀忠に願い出るなど、清廉で公私混同を嫌う心やさしい女性だったようです。

また、大姥は家中の者達を集めて食事を振舞うのが好きで、目下の者に対しても差別せず平等に扱い、彼・彼女らのために給仕してご飯をよそうこともあったと言います。
それを本多正信が疑問視すると大姥は、見事な返答で彼を降参させます。
「私は、昔の辛い暮らしを忘れたことはありませんわ。
こうして食事にも困らぬ恵まれた暮らしが出来るありがたみを知るからこそ、皆さんにお給仕をしているのですよ。
現に出世なさった正信殿だって、かつては鷹匠を務める方だったじゃありませんか」


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こうした大姥の姿に対して徳川実記は、彼女の才覚と正義感を絶賛し、人への憐れみをもった人格者だったと称えています。
近年になって再評価が進んでいる徳川秀忠ですが、その偉業も愛すべき人柄と聡明さで彼を助け続けた陰の功労者・大姥局の薫陶があるのかもしれません。

(寄稿)太田

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