春日局(齋藤福)~江戸城大奥での栄華を極める


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本名は齋藤福(さいとうふく)。春日局の名は天皇拝謁の際に賜った院号。お福、阿福とも呼ばれる。1579年~1643年9月14日、享年64。
父は明智光秀の重臣で斎藤利三(斉藤利三、齋藤利三)(1534年~1582年6月17日)。母は稲葉一鉄の娘で稲葉あん。

実家である斎藤家は斉藤道三以前からの美濃・斉藤氏の一族で、守護代を代々務めた名門。斎藤利三は斎藤義龍の死後、1561年から稲葉一鉄に仕えていたが、1579年に頑固一鉄で知られる稲葉一鉄(稲葉良通)と喧嘩別れしてからは、親戚関係だった明智光秀に1580年頃仕えたと考えられている。
斎藤利三は明智光秀の元で手腕を発揮し、明智光秀は荻野氏の黒井城(赤井直政)を陥落させ丹波平定した際に、斎藤利三に10000石を与えられて丹波・黒井城主を命じた。その頃に齋藤福は誕生している。生まれた場所は諸説あるが、稲葉家文書には黒井城とあり、城下に齋藤福が腰をかけたという「お福石」や「お福の産湯井戸」(斎藤屋敷(下)=現在の興禅寺境内)をはじめ、誕生伝説が多くある。
1582年の春頃には父・斎藤利三と共に丹波・亀山城にいたが、明智光秀の筆頭家老でもあった為、1582年6月2日の本能寺の変では明智光秀の命に従い織田信長を襲撃する。本能寺にて信長を討った後、一時、近江・佐和山城に入ったが、豊臣勢を迎撃する為、明智本隊に合流。1582年6月13日、山崎の戦い(山崎合戦・天王山の戦いとも)で明智勢16000の先鋒として活躍するが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)勢36500に敗北。
亀山城下も高山右近らの攻撃を受け、斎藤福は母・お安(おあん)や兄弟と共に、京に逃げた。斎藤利三も敗走し、明智光秀の本拠地だった坂本城下の近江堅田(大津市堅田)で捕らえられて、6月17日六条河原で処刑された。亡骸は磔(はりつけ)にされたとも言われている。享年49。

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本能寺の変の際にお福はまだ4歳の幼子で、京に逃れた際に、父の処刑を見ることになったと言われており、前後して兄弟らと、浅井長政の家臣・海北綱親の子で絵師(画家)の海北友松(かいほうゆうしょう)を頼り京都の東福寺を訪れたと考えられている。海北友松は父・斎藤利三と大変仲が良かったと言われている。
しかし、豊臣勢の追っ手が迫ったこともあり、母の父である稲葉一鉄の世話で、斎藤福は三条西公国(さんじょうにしきんくに)を頼った。三条西公国は、稲葉一鉄の妻の甥にあたり、太政大臣・左右大臣にもなれる家柄で、斎藤福らを奉公人として匿った。斎藤福は、公家の書道・歌道・香道といった教養を身につけることができた。されど、平穏な生活も約3年しか持たず、豊臣秀吉に斎藤福が三条西公国に居る事が知れてしまい、1584年、亡き父・斉藤利三の妹が長宗我部元親に嫁いでいたことから、四国は土佐・岡豊城の長宗我部元親を頼った。斎藤福は土佐で今度は武士の法律や武家の学問・知識・教養を身につけた。
1589年、12歳になった斎藤福は、三条西家を継いでいて年もそんなに離れていなかった三条西実条を頼って再び京を訪れ、歌や文学・学問などの教養を更に身につけたと言う。斎藤福は何処へ行っても人に好かれ賢い娘だと評判だったとも言われる。

その後、三条西家と稲葉家で話し合いも行われたのであろう。斎藤福は、稲葉一鉄の長男・稲葉重通の養女となり、稲葉福となった。ちなみに、稲葉本家は美濃・曾根城主であり、正室(三条西家公条の娘)の子であった2男の稲葉貞通が継いでおり、のちに50060石の臼杵藩初代藩主になっている。
稲葉重通は長男でありながら側室の子であった為、稲葉本家の家督こそ継げなかったが、美濃・清水12000石を知行し大名になっていた。
稲葉重通には林政秀の次男で、稲葉重通の娘と結婚させ、婿養子に迎えていた稲葉正成がいた。しかし、稲葉正成と結婚させていた娘が若くして亡くなった為、1595年、養女にしていた稲葉福を稲葉正成の後妻とした。稲葉福17歳、稲葉正成25歳だっと言われる。
稲葉重通と稲葉正成は豊臣秀吉の家臣であったが、筑前・名島城主で307000石の小早川家家督を継いでいた小早川秀秋14歳の家老として仕える様、豊臣秀吉の命を受けて1597年に50000石を領した。(1594年に小早川家に養子に入った際に、稲葉重通と稲葉正成は平岡頼勝と共に小早川家家臣になったとも。)
同じ1597年の朝鮮出兵の際には総大将として小早川秀秋が指揮したが、僅か14歳だった為、27歳の稲葉正成が副将となった。しかし、朝鮮では苦戦した為、小早川秀秋と稲葉正成は、豊臣秀吉から叱責を受ける。これを救ったのが徳川家康であり、稲葉正成と徳川家康の絆が強くなったとされている。
この年、稲葉福は19歳で最初の男子・稲葉正勝を出産。

1598年、豊臣秀吉が死去。以後、石田三成と徳川家康の対立が深くなって行き、1600年に関が原の戦いとなる。
小早川秀秋は石田三成らの西軍として15600で布陣したが、稲葉正成と平岡頼勝が徳川家康と内通し、小早川秀秋を東軍に寝返らせることに成功したと言う説が有力だが諸説あり。いずれにせよ、小早川秀秋が東軍に加わったことにより大勢は決し、西軍は壊滅した。
小早川秀秋は岡山550000石(500000石とも)に加増され、稲葉正成も70000石になったと言われている。しかし1602年、小早川秀秋が死去。子がいなかった為、徳川政権初の無嗣改易となり、小早川家は断絶・取り潰しとなり、家臣は全員浪人となった。
小早川家の旧臣は関が原で裏切った事を良く思われず、仕官先がなかったと言う。稲葉正成も当然ながら浪人となり、稲葉正成と稲葉福は美濃で半農の生活を始めた。
1603年には徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開く。
1604年7月、徳川家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母を探すことになり、京都所司代・板倉勝重によって京都に在住する教養ある乳母募集がなされ、三条西実条の推薦を受け、3人目の稲葉正利を産んだばかりの稲葉福(26歳)が応募したところ採用が決定。
徳川家康は、関ヶ原の戦いで自分に味方した元小早川家付家老・稲葉正成の戦功と妻である稲葉福の公家や武家での教養に目を止めて、稲葉福を竹千代の乳母として採用したと言われている。また、一度天然痘をやってアバタ顔であったため、天然痘に免疫もあると言う事で乳母に最適だったとも言われている。
稲葉福は、将軍家の乳母となるために夫の稲葉正成と離婚する形をとったが、離婚した理由には諸説有。俗説では夫の浮気に怒りその相手を殺害して出奔したと言う説もあるが、一般的には一族再興と子供の出世を願って乳母に応募したと言われている。
1604年、2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代の乳母を正式に任命。竹千代の母であるお江与の方(於江与の方)と対面した。
竹千代は生まれながら虚弱体質で体が弱かった。生母お江の方も最初は可愛がったが1606年に次男・国松(のちの徳川忠長)が生まれると、国松を世継ぎにする為、優遇する。
なお、竹千代が生まれ際に、最初の男子・長丸が生後9ヶ月で死んでしまう。

お江与の方の母は織田信長の姉・お市。お江与の方は母の兄弟である織田信長を殺害した明智光秀を快く思っておらず、その明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘である齋藤福が竹千代の乳母になるのを嫌ったとされるが、お江与の父である浅井長政は織田信長の攻撃で自害し、お市の方は豊臣秀吉の攻撃で自害、姉の茶々は徳川家康の攻撃で自害、もう1人の姉・初が嫁いだ京極家は関が原では当初西軍だったが裏切って東軍に加担と、これらの事情をべると、織田信長が討たれた事じたいに、そんなに恨みを持っていたとは考えにくい。むしろ、裏切りにより翻弄される人生であった為、裏切り人に加担した者の娘と言う事で斉藤福を嫌ったものと小生は考える。
この時代、高貴な女性は決して我が子に自ら授乳し育児をする事は無い。また、実子でもお気に入りの子だけを、ひいきにするのは普通の事だった為、お江与の方が、国松(国千代、のちの徳川忠長)を次期将軍にと推薦したのは斉藤福への対抗意識と言うものではないと考えられる。
また、徳川秀忠は正室・お江与の方に頭が上がらなかったとされており、側室を持っていないので、お江与の方の国松を世継ぎにとの望みを無下ににはできなかったと推測する。
徳川家光死後の1686年に編集された「春日局略譜」では、徳川秀忠夫妻が竹千代の弟・国松を溺愛している様子を見て、竹千代(徳川家光)は子供ながら自害しようとしたと言われ、斎藤福は、駿府城にいた大御所・徳川家康に長男・竹千代が世継ぎであると発表して欲しいと直訴したとされている。
当時は既に入鉄砲・出女の規制があり、女性が勝手に箱根を越えることは不可能だった為、斎藤福はお伊勢参りを口実に旅に出たとされる。
徳川家康は当初、竹千代を世継ぎにすることには乗り気ではなく、江戸城に赴いたところ予想以上に徳川秀忠夫妻が国松を寵愛しているのを見て、竹千代を世継ぎにするべきだと考えを改めたとも言われている。
徳川家康が上座に座り、竹千代と国松が部屋に呼ばれた。徳川家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せ、隣に座らせた。そこへ呼ばれていない国松も一緒に側に寄ろうとたが長幼の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、
国松殿は弟、臣下となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ」と発言したとか・・。
「ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう」との一言で、3代将軍になるのは竹千代(徳川家光)と決定したのであった。

1607年には斎藤福と離縁していた稲葉正成は徳川家康に仕えることになり、旧領の美濃・十七条に10000石の領地を与えられ大名に列した。その後、徳川家康の孫・松平忠昌の家老に就任。1615年に豊臣が滅亡した大坂夏の陣では松平忠昌を補佐して戦功を挙げる。
1616年4月17日、徳川家康が駿府城において死去。享年75。
1616年5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が竹千代付けの年寄に就任し、1616年9月には久世広之など約60名の少年が小姓として任命された。斎藤福の子である稲葉正勝もこの頃より竹千代に小姓として仕えたようだ。
1618年、稲葉正成は越後・糸魚川に20000石となる。
1618年には、稲葉正成の前の正室の子で嫡男だった稲葉正次が徳川秀忠に仕え5000石。家督は斎藤福が竹千代の乳母であったことから、家督は福が生んだ稲葉正勝に譲ることとなり、稲葉正次の子孫は旗本として代々仕えた。
また、この年斎藤福は大奥法度を定め、整備し統括をする。
徳川家康の死去で延期されていたが、竹千代は1620年に元服し、名を徳川家光と改名。 小姓として竹千代(徳川家光)に仕えていた稲葉正勝は、御小納戸・御徒頭・小姓組番頭を経て1622年に下総・上総など5000石となり奉書に加判する奉行職に就任。
1623年に徳川秀忠が隠居し徳川家光が将軍に就任。徳川秀忠は江戸城西の丸に隠居し、徳川家光は本丸へ移る。そして、徳川家光は大奥の統制をすべて斎藤福に任せた。
また、斎藤福の娘(まん)が嫁ぎ先で産んだ子である堀田正盛1000石の旗本に過ぎなかったが、徳川家光の近習に取り立てられた。
1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年1623年12月には正式に徳川家光に輿入れ。
稲葉正成は1624年、松平忠昌の越前転封には従わず再び浪人した。この頃、斉藤福は江戸の湯島に天沢寺(麟祥院)を建立している。
前後して、稲葉正勝は常陸・真壁に5000石加増され合計10000石として柿岡藩主となり大名に列した。
1626年にお江与が亡くなると、斎藤福は優れた手腕で大奥制度を確立し、大奥を完全に支配する。春日局自身も江戸に上・中・下屋敷を拝領し3000石を与えられている。
また、この1626年には、近習になっていた堀田正盛が小姓組の番頭となり相模国と常陸国に合計5000石の領地に与えられ、続いて上野国にも新しく5000石を加増され、合計10000石で譜代大名となった。
その後、斎藤福の口添えもあったようで、1627年、稲葉正成は譜代大名として再び召し出され下野・真岡20000石となったが翌年1628年10月14日に58歳で没。遺領は、稲葉正成と斎藤福の子である稲葉正勝が相続し、稲葉正勝は合計40000石となった。

一方、将軍にはなれなかった徳川忠長は甲府・駿河550000石を与えられていたが、浅間神社で猿を斬ったり、辻斬りを行うなど奇行が目立つようになり、1631年5月には徳川秀忠より甲府への蟄居を命ぜられる。
1632年3月4日、徳川秀忠死去。以後、徳川家光は旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、老中・若年寄・奉行・大目付と行った幕府政治体制を確立。
また、1632年、徳川家光は弟・徳川忠長の駿河・甲斐両国を没収。高崎城に預けられたが翌年1633年に高崎城で自害した。享年28。
徳川家光は1632年5月に外様系大名を招集し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を命じている。
稲葉正勝はその後、徳川家光のもとで老中となり、播本藩・加藤忠広改易のときの事後処理などで功績があった事から、1632年、相模・小田原藩85000石と異例の出世をつけだ。
堀田正盛は1633年には六人衆(後の若年寄)に任命され、相模国・常陸国・甲斐国に加増を得て合計15000石で城主格。1635年3月1日には老中に就任し、武蔵・川越藩主35000石。1638年3月8日には100000石で信濃・松本藩に転封。1642年7月16日には下総・佐倉藩110000石と、春日局の縁者は大出世を遂げている。

徳川家光の妹である和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁いでいたが、様子が心配になり、徳川家光は1629年に、斎藤福を伊勢参拝のついでにと将軍の名代として京都に上洛させた。しかし、斎藤福は無位無官の身。天皇の女御に面会できる地位ではなかったが徳川家光は将軍家の威光をもって強行。斎藤福を縁のある三条西実条の猶妹(仮の妹)と言う名目で宮中に入れた。
これに対して後水尾天皇は斎藤福に「春日局」の称号を与えたが、天皇の権威が失墜したことを嘆き、また公卿らの不興をかい、後水尾天皇は和子の娘・興子内親王に譲位して、859年振りの女帝(明正天皇)が誕生した。
なお、春日局が参内できるよう画策した三条西実条は、武家伝奏から内大臣にまで出世していたのだが、春日局参内後、1635年には従一位に進み、1640年6月には徳川家光の執奏により、三条西家としては異例の右大臣に任ぜられた。大臣家の最高職は内大臣が通例であり、右大臣任官は三条西実条と中院通躬り2例のみと言う大出世である。
一方、徳川家光は1635年に武家諸法度を改訂し大名に参勤交代を義務づけるなど、徳川幕府体制の基礎を築いた。

この頃までに、御台所だった徳川家光の正室・鷹司孝子は大奥から追放されて称号を「御台所」から「中の丸様(中の丸殿)」と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で軟禁生活を送らされるなど、事実上家光から離婚させられており、当然子はいなかった。
徳川家光に世継ぎが出来ぬと斎藤福は心配し、徳川家光好みの側室探しに奔走。
春日局の養女として大奥に入っていたお振の方との間に、徳川家光にとって初めての子ができ、1637年3月5日、長女・千代姫が誕生した。これ以降、徳川家光は側室をたくさん迎えることになる。
1939年には春日局が見つけた伊勢・慶光院の院主であったお万の方が側室となり、1934年前後に大奥に入れていたお楽の方は1941年に、のち4代将軍となる徳川家綱を産んでいる。
お夏の方は正室・鷹司孝子付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職だったが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を担当しており、その際徳川家光の手がつき懐妊。のちの甲府宰相・徳川綱重を1644年に産んでいる。
お万の方の世話をしていたお玉も春日局が探してきた女中だが、徳川家光の手がつき1946年に5代将軍となる徳川綱吉を産んでいる。
なお、春日局は徳川家綱の誕生を見た後の1643年9月に死去、享年64。
墓所は麟祥院で、その地の住所は東京都文京区春日となっている。

■その後の稲葉家

相模・小田原藩85000石となり、大出世した稲葉正勝は将来を期待されたが1634年僅か38歳で死去。長男が早世していた為、あとは次男・稲葉正則、稲葉正道と続き、いずれも幕府老中の要職を務めたが、5代将軍擁立の際、稲葉正則は失脚し、1683年に隠居。稲葉正往が家督を継いだが、1685年、江戸に近い小田原から移封となり103000石で越後・高田藩に移った。その後、102000石で下総・佐倉藩、1723年以降は山城・淀藩102000石で幕末まで続いた。

■堀田家のその後
 
堀田正盛は徳川家光から寵愛を受けた男同士の関係だったとされ、徳川家光死去の際に堀田正盛はあとを追って、同日1651年4月20日に殉死(自害)している。
その後、下総・佐倉藩110000石は長男・堀田正信が継いだが、1660年10月8日職務を放棄して佐倉に帰った為、所領没収。堀田正信の身柄は弟である信濃・飯田藩の脇坂安政に預けられた。
最終的には1680年5月、将軍・徳川家綱死去の報を受け、配流先の徳島で喉を突き自害している。
しかし、堀田正盛の功績により堀田正信の長男・堀田正休はお家再興を許され、この系統は吉井藩後近江宮川藩主となった。 堀田正盛の3男の堀田正俊は春日局の養子となり、徳川綱吉の時代に大老まで上り詰め、その子孫も譜代大名として幕府の要職を占めており、篤姫の時代の老中・堀田正睦(佐倉藩主)なども有名。

■徳川家光誕生の部屋と春日局化粧の部屋

埼玉県川越市にある喜多院と言う、川越で一番の見どころとなる寺がある。

喜多院

徳川家光誕生の間と、春日局化粧の間(いずれも国の重要文化財)が、現存しており、有料拝観ができる。
江戸城で生まれたはずの徳川家光が生まれた部屋がなぜ、川越にあるかと言うと、喜多院が1638年の大火で山門以外のすべての建物が消失。1539年、徳川家光が堀田正盛に命じて、江戸城にあった客殿、書院、庫裏を喜多院に移築させたのである。喜多院は天海が住職として関わりある寺であり、徳川家康の遺体を久能山から日光に送致する際にも、川越の喜多院を経由した程、天海は徳川家に大きく関わっている。
こんなこともあり、徳川家光は喜多院の再建のため、江戸城の建物を移築し、現在も現存しているのである。

川越・喜多院

この喜多院では現在、徳川家光誕生の間(客殿)と、春日局化粧の間(書院)を有料拝観可能だが、撮影は禁止。
しかし、是非訪れてみて頂きたい。

kita

斎藤福(春日局)の化粧の間がある川越・喜多院へのアクセスだが、下記の地図ポイント地点が有料駐車場となる。

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