明正天皇 七人目の女帝と取り巻く朝幕間の対立事件を解説

明正天皇

明正天皇とは

明正天皇(めいしょうてんのう)(幼名は女一宮)は、江戸時代前期の元和9年(1624年)11月19日に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の第二皇女として生まれた、百九代天皇である。
母は徳川和子で、二代将軍・徳川秀忠の五女であり、その和子の娘の明正天皇は徳川将軍家を外戚とした天皇でもある。
江戸幕府が天皇や公家への干渉を強め、朝幕関係は悪化するなか、後水尾天皇の突然の譲位により明正天皇は即位した。
数々の朝幕間の対立事件から、翻弄され続けた明正天皇の心中を推し量りたい。

徳川が画策した政略結婚

母・和子は秀忠の娘であるから、明正天皇は徳川家康の曾孫にあたる。
家康は、後陽成天皇の次期天皇として、第一皇子を廃して第三皇子である政仁親王(後水尾天皇)の擁立を求めた。
後陽成天皇はこれを受け入れ、家康の後押しにより後水尾天皇が即位することになる。


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家康は後水尾天皇に和子の入内を申し入れ、入内宣旨が下されたのが慶長19年(1614年)のことであった。
これはかつての権力者がしてきたことと同様に、天皇家の血筋に徳川の血を入れ、政治的な影響力を持つという家康の野心でもある。

およつ御寮人事件

家康は和子の晴れ姿を見ることなく死去するが、その後も和子の入内は多難であった。
秀忠は、宮中の典侍・四辻与津子が後水尾天皇の皇子や皇女を産んだという噂を聞く。
それが事実であれば和子の入内は延期せよと、秀忠は藤堂高虎に申しつけた。
高虎は、和子入内における朝廷との仲介役で奔走した人物で、秀忠も世渡りの上手い高虎を頼りにしていた。
幕府は与津子の出家と、その実兄を流罪に処すが、これには後水尾天皇も眉をひそめ、譲位を申し立ててきた。
しかしここで譲位されれば、和子の入内自体が消えてしまう。


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高虎は公家たちに、幕府に従わないのなら帝を譲位ののちに流罪にし、自分は切腹して責任を取ると恫喝して、ようやく和子の入内が決まったのは、入内宣旨が下されてから6年後のことであった。
後水尾天皇の胸中に、その後もこの事件が何らかの影響を及ぼすが、そのなかで和子の入内が盛大に行われた。

女一宮の誕生と親王の薨去

後水尾天皇は、しばらく和子を敬遠していたようで、新女御の和子にとっても公武の習慣の違いは、心を惑わすものであった。
しかし姑の中和門院が嫁の和子を思いやり、辛抱強く指導した結果、宮中の生活にも馴染み、後水尾天皇との仲も徐々に良くなっていったようだ。
そして後の明正天皇である女一宮が生まれた。
女一宮が誕生してからは慶事が続き、中宮となった和子は女二宮を産み、さらに幕府にとっては待望の皇子を出産し、皇子は高仁親王と命名された。
この高仁親王の誕生は、徳川の皇位の実現を意味するものであったが、幕府が高仁親王の即位の態勢を整えている最中に、高仁親王は僅か3歳で薨去した。
女一宮の誕生から、朝幕間は融和が続くと思われたが、高仁親王の薨去の頃から暗雲が立ち込める。

禁中並公家諸法度

幕府は、慶長20年(1615年)に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定しているが、これは天皇や公家のあり方や、行動を規制するための法令である。
幕府が朝廷を管理下に置くことも法令の目的ではあるが、朝廷も強力な幕府という組織に頼らざるを得ない状況にあった。


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この時代の朝廷は、政治的な権力や軍事力や経済力は皆無であったし、風紀も大いに乱れ朝廷内での揉め事も統制する能力がなかった。
幕府に統制してもらわなければ、存続することも難しい状況が色々とあったのだ。
朝廷の受け入れる下地があって、この禁中並公家諸法度の制定に至り、これにあたって朝廷は、幕府側に近かった二条昭実が署名をしている。
朝廷が結果的に和子の入内を受け入れたのも、そういった事情と関係してくる。

紫衣事件

幕府は、この禁中並公家諸法度のなかで、紫衣着用の勅許も厳しく規制している。
紫衣は紫色の法衣や袈裟で、古くから朝廷が高僧に対して下賜していたと同時に、朝廷にとって貴重な収入源でもあった。
後水尾天皇はこの法令を無視し、慣例に従い紫衣着用の勅許を十数人の僧侶に出したが、幕府は事前に相談がなく勅許が出されていたことを問題視し、勅許を無効にした。
この処置に抗議した大徳寺の沢庵宗彭(たくあん-そうほう)らを流罪にし、後水尾天皇を激怒させた一連の事件を紫衣事件(しえじけん)という。
勅許を無効にすることは、天皇の権威を否定することでもあった。

突然の譲位と女一宮の即位

後水尾天皇の逆鱗に触れてしまったのは、幕府にとって不慮の出来事であったようである。
幕府は朝幕融和のため、三代将軍・徳川家光の乳母である、お福(春日局)の参内を実現さたが、無位無官のお福を半ば強引にこじつけて参内させた手段は、かえって朝廷からの反感を強める結果になってしまった。
後水尾天皇は、事あるごとに譲位を試みたといわれるが、この紫衣事件と春日局参内事件は譲位を決意させた最大の要因であった。
寛永6年(1629年)10月29日、女一宮は僅か7歳で内親王宣下を受け、興子内親王の名を与えられた。


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ついで11月に後水尾天皇は、幕府に相談もなく譲位を決行し、幼少の興子内親王を明正天皇として即位させるに至ったのである。
天皇となった女性は生涯独身を通さなければならなく、幕府の念願であった、皇統に徳川の血を伝えることはできなくなる。
この時点で、後水尾天皇と和子の間に皇子はなく、明正天皇の皇位も一代限りで終わりを意味した。
後水尾天皇は度重なる朝幕間の対立事件のなかで、特に高仁親王の薨去以降、自らの譲位をちらつかせ、それを最後の切り札に使い、幕府に対して報復を行ったのである。

徳川の血を引く帝として

即位した明正天皇は幼少であったため、朝廷における実権は全くなく、事実上の中継ぎ役に過ぎなかったといえる。
とはいえ、明正天皇は朝幕融和にひたすらに徹した。
自身ができることは限られたなかで、朝廷と幕府の板挟みになりながらも、朝幕融和のために両者の安寧を祈り続けた。
寛永20年(1643年)明正天皇は、21歳の若さで異母弟・紹仁親王(後光明天皇)に譲位し、上皇となる。
明正上皇は自由を束縛してきた皇位から、ようやく解き放たれた気がしたが、譲位後の生活はさらに孤独なものとなった。
そのなかでよりどころを求めた明正上皇は、天台宗の僧・江玉真慶と出会い、江玉に深く帰依した。
江玉は山科・十禅寺の住持であり、十禅寺は平安時代に仁明天皇の第四皇子である人康親王を開山として創建された寺院である。
その後、度重なる戦火で荒廃したのを江玉が再興した。
上皇は、立派な紫衣をまとった高僧に帰依するのが通常であろうが江玉は違い、身なりもかなりみすぼらしかったという。
父や母をはじめとする、周囲の視線や噂もあったかもしれないが、それでも明正上皇は江玉に傾倒した。
朝廷と幕府のはざまで葛藤してきた明正上皇にとっては、初めて心の安らぎを得られるものであったに違いない。
明正上皇は、十禅寺を勅願寺として朝幕融和を祈り、父や母の菩提も願いながら静かに余生を送った。
時は流れ、皇位は東山天皇が在位し、将軍家も五代将軍・徳川綱吉の時代になり、この治世でようやく朝幕関係は、融和の兆しが見え始めた。
明正上皇の祈りが届いたのだ。
明正上皇は、それを見届け74歳の生涯を閉じた。


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明正の名は女帝の元明天皇と元正天皇から取った追号である。
明正天皇、元禄9年(1696年)11月10日、仙洞御所で崩御、宝算74歳。
陵墓は泉涌寺の月輪陵にあるが、今も御霊は十禅寺に通い続けているのかもしれない。

(寄稿)浅原

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