柳生石舟斎 柳生宗矩 柳生新陰流「天下統御の剣」~治国平天下

治国平天下 ~柳生新陰流 天下統御の剣・柳生石舟斎柳生宗矩

柳生石舟斎・柳生宗矩と柳生一族、ややもするとその負った役割ゆえに、諜報活動に暗躍した「陰の一族」として受け止める方も多いだろう。
米国アップル社のカリスマ創業者の故スティーブ・ジョブズ氏の愛読書に『弓と禅』(英訳)があり、その中で宗矩の剣、新陰流兵法に禅理を説いた僧沢庵の禅話も引かれている。
―『兵法家伝書』柳生宗矩著 (PHP新書) まえがきより。
柳生新陰流と柳生家の果たした役割は江戸時代の長い泰平を築いただけでなく、組織とそれを支える人間のあり方についても今日学ぶことの多いゆえんである。

大和の谷あいから柳生家の船出

▼のちに徳川幕府260年余の泰平を支える土台となった「兵法柳生新陰流」の骨格は、柳生石舟斎とその子・柳生宗矩が築きあげたといえる。

単なる剣術ではない平和統治の術、戦わずに武家社会を平和に統治する天下統御の帝王学であったところに、勝つための殺人剣たる他の流派とおおきな隔たりがあるのだろう。

柳生家は平氏を姓とし、祖の菅原永家(菅原大膳永家)が春日神社の社領、大和国神戸四箇郷(大柳生・坂原・小柳生・邑地)の地頭として赴任して、1038年以来柳生の地に土着したことに始まる。
祖先をたどれば、右大臣・菅原道真(そう!!「天神さま」)の直系ということになっている。

柳生の里

地名を苗字にして柳生を名乗ったのは柳生永珍(柳生播磨守永珍)(はりまのかみながはる)のときで、柳生石舟斎から6代前のこと。この頃「元弘の変」(1331年)が起こっている。

後醍醐天皇鎌倉幕府追討の旗を揚げ、柳生の荘の至近、笠置山に立てこもった。
このとき柳生播磨守永珍は500の兵をもって笠置山で後醍醐帝のために戦ったが、鎌倉幕府の大軍の前に敗れ、帝も身柄を隠岐の島に流された。
太平記』が描く騒乱はこのあたりから始まるお話だ。

足利尊氏新田義貞、楠正成らの活躍で後醍醐側は逆転勝利し、鎌倉幕府を滅ぼして、1333年、天皇親政の政権を京都に立ち上げた(建武の新政)。
笠置での活躍の論功として中坊源専(柳生永珍の弟)は鎌倉幕府に取り上げられていた柳生家の旧領地を回復し、源専が兄の柳生永珍にこれを譲って、柳生家を名実ともに再興した。

柳生氏の家系図

戦国時代、常に戦乱の渦中にあった大和国で柳生のような弱小勢力が生き残るには、つねに周辺勢力の情報を収集し、自らの去就を誤らぬことが大事だった。
足利12代将軍義晴は戦乱を避けて京の都と近江の避難先を往ったり来たりの無政府状態。
柳生石舟斎の父・柳生家厳は三好長慶細川晴元の下で戦場に働くうち、筒井順昭(洞ヶ峠で有名な筒井順慶の父)の兵1万に小柳生城を落とされ、筒井の軍門に下った。
このとき柳生石舟斎宗厳は18歳。
「惣テ大和国土ハ何某ノ旗下タルト云事ナシ」と『玉栄拾遺』が書き残すように、家を存続させるには剣法ではどうにもならぬ進退去就の知恵が求められた。

柳生石舟斎城跡の石碑

戦国末期、畿内を制した織田信長に大和の松永久秀が反旗を翻した際には、柳生宗厳(むねよし・石舟斎)も松永家の配下となって因縁の筒井勢と戦った。
柳生宗厳の長男・柳生厳勝(よしかつ)はこの戦いで腰に銃弾を受けて障害を負い、剣術の道をあきらめることになる。

本能寺の変で織田信長が倒されると、天下を後継した豊臣秀吉に「柳生家本領安堵」の沙汰がなされ、柳生家は秀吉の実弟・豊臣秀長(大和大納言秀長)の組下に配置された。
しかし、太閤検地がはじまると、柳生家の隠田(隠し田・表高に載らないウラ財産)を豊臣秀長に過去の遺恨で密告するものがあり、柳生家はすべての領地を没収されてしまう。
この頃が柳生の家の最も困難な時代であったろう。

柳生街道

『玉栄拾遺』(ぎょくえいしゅうい)—柳生家と柳生藩の正史を記録した文書は、家中の萩原信之によって柳生藩6代藩主・柳生俊峯の宝暦年間(1751~1763年)に書かれた。
柳生家の記録は元弘・建武の乱で散逸したり、江戸中期までの三度の火災で記録を失っていたため、江戸中期によく調べた先祖の事績を細かく記録している。
なお記述の中身は、4代藩主・柳生俊方までで終わっている。

上泉伊勢守との出会い 石舟斎 無刀取への挑戦

上泉伊勢守像

▼柳生石舟斎・柳生宗矩の親子がのちに功名を残すきっかけをつかんだのは、徳川家康との出会いがあったからだが、家康は柳生親子の披露する「無刀取り」に心を奪われたために柳生新陰流の弟子となったいきさつがある。
ではこの柳生新陰流とはどのように形作られたのか?
それには戦国時代末期のある兵法家(武芸者)と柳生石舟斎との出会いから説き起こさねばならない。

▼話は織田信長の上洛以前の戦国時代のさなかにさかのぼるが・・・。
永禄6年(1563年)、関東上野国(こうづけのくに・現在の群馬県)に一人の国人剣豪がいた。
名を上泉伊勢守秀綱といい、父親の代に小田原北条氏に圧迫されて居城・大胡城を追われ、箕輪城(高崎市)城主・長野業正のもとに仕えていた。
この上泉秀綱こそが「新陰流の流祖」である。

新陰流誕生の地碑

愛洲移香斎の陰流や神道流、念流などをおさめ、とくに陰流にあらたに工夫を加え「新陰流」兵法を編み出した「剣聖」と後世うたわれる人物である。
史料上には、山科言継の日記『言継卿記』に、永禄12年~元亀2年までその名が32回みえる。
「大胡武蔵守」、「上泉武蔵守(上泉信綱)」などとあって「伊勢守」とはみえないが、ここでは通称の上泉伊勢守秀綱で書き進める。

▼箕輪城の長野業正(長野業政)は、永禄年間、西上野に侵攻した武田信玄をよく撃退した勇将であったが病没し、跡を継いだ若い息子・長野業盛は、武田の大軍の前に滅び去った。
長野家の麾下で最後まで奮戦した上泉伊勢守の人物を惜しんだ信玄はその命を赦したが、上泉秀綱は武田家仕官を断って西国へと数人の家臣を伴って廻国修行の旅に出た。
おのれの打ち立てた新陰流を世に問うてみたいと思ったのだろう。
この際、武田信玄の偏諱(へんき)を与えられ名を「信綱」に変えたともいわれる。
個人の武芸がいかに卓越していても、集団闘争の中では大勢の勝敗の中に埋没していくしかない。
上泉秀綱(上泉信綱)には個人技の剣術の無力さにやり切れぬ思いもあったであろう。

上泉伊勢守像と上泉城址

なお、箕輪城落城については甲州・地元上州などでの記録で永禄9年説が有力だが、そうなると柳生宗厳に与えた永禄8年付の新陰流「印可状」と矛盾してしまう。
また足利13代将軍・足利義輝が上泉の演武を台覧した際の感状の日付は永禄8年3月になっている。
足利義輝が三好・松永らに殺されたのが永禄8年5月と記録されているから、永禄9年以後に上泉伊勢守が将軍・義輝に拝謁できないことを書き添えたい。

柳生氏の史料と足利幕府の公式記録の双方の辻褄は合うので、箕輪落城前、たとえば長野業正が病死した直後(長野業盛時代の箕輪落城以前)に、上泉伊勢守が長野家を出て、上方へ向かったことになると理解することもできないことはない。

「信綱」の名が信用できる史料にもみえるが、武田信玄に命を赦され、偏諱をもらって致仕したものとするのに無理があると思う。

▼上泉秀綱は伊勢の国主・北畠具教のもとに立ち寄り、そこで畿内一の剣術者・柳生宗厳(やぎゅう-むねよし)(のちの石舟斎)の名を紹介され、奈良興福寺の宝蔵院で手合わせする機会をもった。
上野から秀綱に随行してきた弟子・鈴木意伯がまず柳生宗厳と立ち合ったが、三度続けて宗厳が完敗した。
宗厳の熱心さ、誠実さに惹かれたか、翌朝から三日続けて上泉秀綱自身が立ち合った。

柳生氏鍛錬場

泰然自若、自然体で隙だらけに見える秀綱に、電光石火の竹刀を振り下ろす宗厳の攻撃は、次の刹那、あっけなく秀綱に小手をあびて竹刀を取り落としていた。
新陰流の極意の中心をなす「後の先」であるが、ここで型を詳しく解説する紙数もない。

柳生宗厳は直ちに上泉伊勢守に入門すると、自らの屋敷にともなって教えを受けた。

伊勢守の高名をしたって教えを乞いに来るものも多く、伊勢守は半年柳生の里に留まった。

柳生氏鍛錬の場

京へ向かい足利13代将軍義輝に拝謁するため、伊勢守は弟子の疋田文五郎(ひきたぶんごろう)を残して柳生を離れたが、その折に宗厳に一つの課題を与えた。
「無刀の位」、すなわち武器を持たぬ身で一瞬にして相手の武器を取り上げて敵を制圧する剣技の完成をである。
刀に頼らずとも勝ちを得る究極の技。
これはまだ伊勢守自身も剣技として完成させてはいない。

無刀取り開眼 柳生新陰流の誕生

▼柳生の里を離れて上洛した上泉伊勢守は、大納言・山科言継卿と知り合い、足利13代将軍義輝に新陰流の剣術を上覧(将軍が見物することを台覧という)に入れることが叶った。
まだ織田信長が上洛する前のことで、京都の治安も荒れていた。

多くの著作が、このとき天覧(天皇の上覧)を得て、将軍の奏請で秀綱が異例の四階級特進「従四位下・武蔵守」に叙任したと書いているが、あきらかに誤認であろう。
13代・足利義輝は、永禄8年に三好・松永勢のクーデターによって御所を襲われ戦死している。
伊勢守秀綱が正親町天皇に剣技の演武を天覧に入れたのは4年後の永禄11年(1568年)で、織田信長が15代将軍義昭を奉じて入京し、京都周辺の治安が落ち着いてからのことである。

このとき正親町天皇から下賜された御前机が、現在群馬県前橋市の秀綱の菩提寺(西林寺)に保存されている。

上泉伊勢守墓所(西林寺)

▼さて、上泉秀綱が再び柳生谷を訪れたのは永禄8年(1565年)のこと。
「無刀の位」、すなわち武器を持たぬ身で一瞬にして相手の武器を取り上げて敵を制圧する剣技、刀に頼らずとも勝ちを得る究極の技の完成・・が宗厳に出した課題であった。
門弟を引き連れた秀綱はさっそくに宗厳の修練の成果を見ることにした。
打太刀(仕掛ける側)は鈴木意伯。宗厳(無腰だからこれを仕太刀というのかどうか・・)は竹刀も持たぬ無腰のままだ。
何度か間合いを取ったが、わざわざ背を向けた宗厳の背中にも警戒心が滲んで見えることを指摘され、自然体で打ち込む隙をみせることが求められた。
「やり直しましょう」と踵を返した刹那を意伯はすかさず真っ向から宗厳に打ち込んだ。

目にもとまらぬ電光の一撃だった・・と思った瞬間、宗厳はすらりすらりと意伯の打ち込みをすり抜け、さっと両者の体が入れ替わった瞬間、意伯の剣は宗厳に握られて勝負は決していた。
「無刀取り」の完成を目の当たりにした伊勢守秀綱は、宗厳の技を激賞し、年来の望みが叶ったと心から満足した。

柳生藩印

このあと、宗厳は無腰、意伯は真剣にておよそ3時間にわたる演武を伊勢守の面前に供し、無刀取りの完成形を披露したといわれる。
伊勢守秀綱は、柳生宗厳に新陰流の極意をすべて相伝し、「新陰流」の印可状を与えた。
永禄8年4月吉日と記されている。

▼柳生家に残る伝書によると、
「無刀とは、刀に執着せずに武器を選ばぬことであって・・たとえ武器がなくともあわて騒がぬ境地に至ること」だと説いている。
まったくの素手で立ち向かうということだけを言っているのではない。
柳生石舟斎の子・柳生宗矩が書き残した『兵法家伝書』の無刀の巻では次のように言っている。

「人の刀を取るを芸とする道理にてはなし。われ刀なきときに、人に斬られまじき用の習いなり。諸道具を自由に使わんがためなり。刀なくして人の刀を取りてさえ、わが刀とするならば、なにかわが手にもって用に立たざらん。扇をもってなりとも、人の刀に勝つべし。無刀とはこの心がけなり。」

『兵法家伝書』は寛永年間(徳川3代将軍・徳川家光の治世)に柳生但馬守宗矩が柳生新陰流の理論を解釈して書き留めた記録である。

▼話が少し前後する。
天文12年(1543年)にポルトガル人が種子島にもたらした鉄砲が普及し、その威力が戦いの勝敗を決していくさまを見せつけられて、伊勢守にも宗厳にも兵法観そのものに大きな変化が生じていたであろう。

兵法が単なる殺人刀であれば、鉄砲の集団戦の世にあってはまったく無力で、一鉄砲足軽の働きにも及ばない。
やがて乱世が終わって平和な世となれば、兵法家のよって立つ標はどこにあろうか。
そういう危機感がひいては自分の存在そのものを問われるほどのいたたまれない気持ちであったことだろう。

▼こののちに、柳生の隠田が発覚して豊臣秀長に所領すべてを没収されて人生の最底辺を味わうのだが、直前の数年はほとほと無力さに堪えたと見えて後世に残る歌を石舟斎宗厳が詠んでいる。

「兵法の 楫(勝ち)を取りても 世の海を
渡りかねたる 石の舟かな」

※(東京の柳生本家文書から発見された柳生石舟斎宗厳『兵法百首』より)

「石の舟」とは自邸にあった手洗い用の「手水鉢」のことであるが、柳生の里の山中から出た石の櫃を利用したものである。

屈辱感の中でじっと耐えた日々、柳生宗厳は石の舟にわが身を写し込んでうたったのである。
いささか自嘲気味だが、剣術に秀でていても世に出ない者の焦りがよく謳い込まれてはいないだろうか。

ちなみに柳生宗厳が髪をおろして石舟斎を号するのは、文禄2年(1593年)『兵法百首』をうたった65歳の時である。

転機・家康との出会い 宗矩、徳川の剣術指南役に

▼国内の争いは止んだ。
豊臣秀吉は大坂城、聚楽第についで、隠居城を兼ねた政庁として「伏見城」の建築に着手した。
秀吉の家臣となる道を選んだ徳川家康はこのとき伏見城の普請手伝いを命じられ、京都紫竹村の峰陣屋で工事の督励に当たっていた(文禄3年・1594年)。
石舟斎宗厳が隠田(おんでん)を告発され、豊臣秀長によって柳生の領地を没収され失意の日々を送っていた同じ頃である。


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▼石舟斎が亡くなる7年前(慶長4年・1599年)の日付で、妻にあてた「遺言状」が江戸柳生本家に保管されていた。

「茶道具を売って自分の葬式費用を捻出してくれ」と書かれている。
秀吉の検地(文禄3年・1594年)から6年後の関ケ原の戦いまでの期間の柳生家の落ちぶれようはひどいものであった。(『柳生雑記』)
憤懣やるかたない思いは、また家康にも石舟斎に近いものがあったであろう。

徳川家康は武芸諸般も達者で、若いころからよく心身を鍛えていた。
柳生石舟斎の「無刀取り」をうわさに聞き、ぜひにも見たいと望み、黒田長政を通じて柳生石舟斎を陣屋に招いた。
石舟斎宗厳(66歳)は五男の柳生又右衛門宗矩(24歳)を伴って、徳川家康(53歳)のもとを訪ね、家康の面前で剣技を披露した。

▼打太刀は宗矩、石舟斎は両手をだらりと下げて武器を持たない無警戒のさまである。
間合い一間にじりじり詰めて、気合とともに閃光の一撃で宗矩の木刀が振り下ろされた。
石舟斎はその木刀の下で片膝をつくと、同時に宗矩の木刀は音を立てて地面に落ち、宗矩の喉元に石舟斎の拳が入っていた。
一瞬である。武芸者としても自負を持つ家康は自ら石舟斎との立ち合いを望んだ。
家康とて奥山休賀斎から7年剣を学んだ腕前である。
「わが剣を受けて見よ」言うのと同時に家康のすさまじい気迫の一撃が振り下ろされた。あわやと思われた瞬間、するりと石舟斎は体を沈ませ、家康の木刀の柄を取るとその剣をはね上げた。
石舟斎の左手は家康の左腕を制圧し、右の拳で家康の胸を突き倒せる態勢のまま止められていた。
徳川家康の完敗だった。

▼「なぜ無刀で戦うのか?」家康はまたそのことも尋ねたことだろう。
石舟斎はこう答えたはずだ。
「常に武器を身辺に置き身を守る用意をいたしおるのは言うまでもござらぬ。
しかしながら、いつどのように敵に襲われるかもわからぬ状況で、どのような手段を講じてもありあわせのものを手に取って応戦しなければなりませぬ。
最悪の場合は素手で立ち向かっても己を守る用意をしておくまで。
その鍛錬、心がけを無刀取りの形でご覧に入れたまででございます。」
大きく頷いて、家康はすぐに石舟斎に入門する旨を申し出た。
「家康様、お後えお倒れながら、上手なり、ご師範仕るべしとの上意・・」
(『玉栄拾遺』)
しかし、・・石舟斎はこれを辞退した。
「ご覧のごとくわが身は老齢。代わりに心血注いで仕込んだせがれ宗矩をお召しだし下されば望外の幸せ・・」

▼家康は宗矩を試したことだろう。「宗矩!! 柳生新陰流の極意とは何ぞ!!」
「徳川様仰せのごとくに。大将たる者の兵法は、一人二人の相手を倒す殺人剣であってはなりませぬ。三尺の剣をもって天下の民を活かし、乱を平らげる・・これぞ活人剣、柳生新陰流無刀取りの極意と心得ます。」
「すなわち柳生新陰流とは、平和の剣、天下統御の剣にて候!!」
家康が宗矩の答えに「我が意を得たり」とうなったのは間違いない。

▼徳川家康はすぐに入門の誓紙を書き、柳生宗矩に知行200石と備前長船・景則の刀を与え旗本に取り立てた。

正木坂剣禅道場

まさに柳生一族の運命を開いた出会いの瞬間であった。
家康もただのお大尽の好々爺ではない。
避けられない秀吉との摩擦にはこの先も備えねばならない。
秀吉方の動きを的確につかむためには関東の江戸ではいかにも不便だ。
上方にあって自分の耳目となって情報を伝えてもらうには、かくれ里柳生の位置は格好の立地だったのである。
そのあたりの先行投資を考えない家康ではありえない。

秀吉が亡くなり、関ケ原合戦に勝利した徳川家が、江戸に幕府を開いて天下の実権を握るのはこの時から9年後である。
柳生宗矩は徳川政権下で江戸に活躍の場を移し、二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の指南役も務め、兵法家としては類のない1万2,500石の大名にまで栄達することになるが、それはまだのちのこと。

諜報に活躍する柳生家 (関ケ原から江戸幕府へ)

▼「本能寺の変」直後のいわゆる「神君伊賀越え」では、ルート上にコネクションを張る伊賀者・甲賀者が協力して家康を伊勢の浜まで護衛した。
彼らは家康生涯最大のピンチを救ってくれたのだ。この恩に家康はいまだ報いてやれないでいた。
豊臣秀吉が亡くなり(慶長3年・1598年)、家康と秀吉子飼いの石田三成らとの間で緊張状態が高まった。
時代は大きなうねりの中で「関ケ原の戦い(慶長5年・1600年)」へと突入していった。

関ケ原前夜、柳生宗矩が畿内の諸大名の動きを諜報し、調略するにあたって、これら伊賀・甲賀モノを大いに活用すべし・・というのが家康からの密命だった。

▼宗矩は父・石舟斎ばかりでなく、里に戻っていた従弟の利厳(のちの尾張柳生家の祖となる兵庫助)にも協力させ徳川のためのウラ工作に当たった。
石田三成周辺の動きばかりでなく、畿内・西国の大名の動向を柳生の弟子たちや忍びの者が細かく探って石舟斎の手から関東の家康の元へことごとく送られた。
そしてまた、周辺の諸将に偽の情報を流し疑心暗鬼を生ませるようなかく乱情報も流させ、東軍への寝返りを誘う工作もした。

▼家康も会津の上杉景勝ばかりでなく、常陸の佐竹、場合によっては奥州の伊達政宗までも敵と想定しなければならない危うい情勢だった。
うかつに関東から石田討伐には向かえない。

柳生宗矩は家康とともに関東にあり、手のモノに関東・奥州の動向を探らせて家康に報告する役目を負っていた。
関ケ原前夜に家康がなかなか江戸を発てなかったのには豊臣恩顧の東軍諸将の後背を見極めるだけでなく、そういった東国の背景も大きい。
家康率いる上杉討伐軍には、宗矩も加わっているが、石田三成の挙兵を知ってからは東海道を西へ急行したようで、東軍諸将を督励する家康の使者・村越茂助を三河池鯉鮒に迎えている(8月24日)。
決戦2日前の9月13日には家康を美濃・余地越で出迎えた。

柳生の情報収集作業の過程で、後世いわれるところの「裏柳生」が形作られ情報機関としての体裁が整っていったと考えられる。

▼『玉栄拾遺』の「関ケ原記」に記載が見える。

「慶長4年より騒動。柳生但馬守宗厳は息子・柳生又右衛門宗矩を嶋左近の屋敷に遣わし口ぶりを聞く・・」
つまり、関ケ原の合戦の前年から石田家の重臣・島左近に探りを入れ、三成周辺の動きを聞き出していたことが分かる。

石舟斎と石田の重臣・嶋左近は、筒井家においてともに仕えていた時期があり、島左近の脇も柳生に対しては甘かったと感じられる節がみられる。
また、「このたび筒井順斎を遣わした。筒井伊賀守(筒井定次)と談合して人数を集め、忠節を(徳川に)つくさせるように。・・詳しくは又右衛門(宗矩)に口上させる。」
と慶長5年7月29日付け、徳川家康から柳生石舟斎宛に書状を送っている。
ウラ工作の指示を出していたことが確認できる。
関ケ原合戦はこの年慶長5年(1600年)、9月15日のことである。

▼石舟斎・宗矩親子は関ケ原合戦(慶長5年・1600年)での情報収集や敵の情報かく乱の功を評価され、この年の10月、先祖代々の旧領・柳生の庄一帯の2,000石を石舟斎に与えらた。
柳生家は悲願を達成したのだった。

関ケ原の1年後、慶長6年(1601年)9月、宗矩はのちの二代将軍・徳川秀忠の兵法指南役となり、父・石舟斎とは別に1,000石加増された。
慶長8年(1603年)2月、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。
同じ年の7月に家康は、孫の千姫を大坂の豊臣秀頼に嫁がせている。

江戸柳生と尾張柳生

▼柳生史としてここで特筆したいのは、柳生宗矩が江戸でのちの「江戸柳生家(1万石大名家)」の地歩を固め始めたこの年に、柳生の庄では石舟斎が長男・柳生厳勝(宗矩の長兄)の二男・柳生利厳(としとし)に『新陰流兵法目録事』を与えていることだ。

剣の筋を見込んで、石舟斎自ら孫を柳生の里で剣術家として育成していた。
のちに尾張大納言徳川義直に指南役として仕えることになる柳生兵庫助である。
利厳の母・仁木氏は、家康の正室・築山殿の姪に当たる。
『徳川実記』『寛政重修諸家譜』等徳川幕府の史料では、石舟斎の跡は宗矩が継いだと記録されているため、祖父の死後は兵庫助は叔父宗矩の庇護下にあったものと見る研究者もある。

▼この兵庫助利厳はやがて島清興(石田三成の重臣・島左近勝猛として知られる猛将。関ケ原で戦死した。)の娘・珠を後妻に迎える。
島左近は石舟斎の友人でもあった。

十兵衛杉

新陰流2世の石舟斎は、政治を志した五男・柳生宗矩を兵法者として良しとしなかったのか、それとも若年で重傷を負った長男・柳生厳勝の子を不憫と思ったか、この手塩にかけた孫・柳生利厳に新陰流3世を相伝した。
柳生兵庫助利厳は尾張柳生初代(石舟斎の長男で兵庫助の父厳勝を名目上の初代と数える場合もある)とされるわけだが、兵庫助と島左近の娘との間に生まれた男子(兵庫助にとっては三男)が、柳生きっての剣豪ともうたわれた柳生厳包(柳生連也斎厳包)(れんやさい-としかね)である。

柳生最強剣士の誉れも高い柳生連也斎厳包は、島左近勝猛の孫になるわけで、当初は母の実家・島家を再興する予定であった。

連也斎厳包は尾張柳生家の4代目になるが、妻も子もなく、兄・柳生利方(兵庫助の二男で3代目当主)の子・柳生厳延が5代目を継ぐ。
尾張柳生が相伝する新陰流は、尾張藩主・徳川義直や光友らが途中流派の宗家となっているので、流統と柳生家当主を数える際は注意が必要だ。
現在「尾張柳生家が新陰流の正統」といわれるゆえんで、石舟斎以来のDNAとともに22世宗家柳生耕一氏が流統を継承している(2016年現在)。
耕一氏とは私も二度お目にかかってお話をさせていただいた。

▼慶長11年(1606年)、石舟斎宗厳は柳生の庄で病没した(78歳)。
『芳徳院殿前但州太守荘雲宗厳居士』。
墓所はのちに宗矩の親友・沢庵宋彭(たくあんそうほう)が開山となり、宗矩の末子・列堂義仙を初代住持として、石舟斎時代の柳生城址に建てられた「芳徳禅寺」にある。

柳生石舟斎宗厳の墓(芳徳寺)

「一文は無文の師。他流勝つべきにあらず。きのふの我に今日は勝つべし。」
―(「柳生家憲」)
晩年石舟斎は柳生一門に向けて、剣の心、人の心のあり方を伝える書を残していった。

▼石舟斎が亡くなった翌年、宗矩の嫡子が正室おりんの方から生まれる。剣豪としておなじみの柳生十兵衛三厳である。

十兵衛の母おりんは、松下之綱(松下嘉兵衛之綱)の子・松下重綱の娘に当たる。
松下嘉兵衛之綱は、若き日の藤吉郎秀吉が世話になった人物とされ、今川家に仕えていた遠江国の小豪族だ。

慶長18年(1613年)、柳生宗矩に次男(庶子で母は烏丸光広の娘順子)のちの柳生左門友矩(刑部少輔)が生まれる。
同じ年、正室おりんの方から三男・柳生又十郎宗冬(のち飛騨守、柳生藩・第二代藩主)が生まれる。

柳生十兵衛著の兵法書「月之抄」

この宗矩を初代とする将軍家兵法指南役、大名の柳生家を江戸柳生と後世呼んでいる。

▼柳生十兵衛(江戸柳生2代目)と兵庫助利厳(尾張柳生2代目)のどちらが強かったのか?
柳生宗冬(江戸柳生3代目・大名)は連也斎厳包(尾張柳生4代目)に御前試合で負けて重傷を負った・・などと、しばしば剣士としての腕前を巷間比べがちである。
尾張柳生の口伝によると、「慶安御前試合」(1651年)の家光の面前で宗冬と兵助(連也斎)の演じたのは「大転(おおまろばし)」と呼ばれた勢法、つまり型であって、兵助の打太刀の打ち込みが早すぎたため、宗冬の拳を傷つけたのではないかといわれている(今村嘉雄「図説日本剣豪史」)。
打ち合わせの手順を誤って一族の重鎮(当時8,300石旗本の当主)に重傷を負わせたということかもしれない。

▼江戸柳生家は将軍家の指南役で柳生十兵衛を除く歴代当主は大名である。
十兵衛の代には、宗矩死亡時の遺言によりいったん大名の禄を返上しているので、改めて幕府がその遺領を十兵衛が8,300石、弟宗冬4,000石、末子列堂義仙(僧侶)200石に分与した。
十兵衛の代には1万石を下回ったので大名ではないが、兄十兵衛の遺領を継いだ宗冬がのちに1万石に達して大名に返り咲いているので、便宜上十兵衛を柳生藩2代藩主と扱うことが多い。
江戸幕府草創期において、柳生宗矩と柳生宗冬は政治面で重要な働きをし、徳川長期安定政権に資して天下泰平の確立に貢献した。

柳生十兵衛

尾張柳生家は石舟斎直伝の兵庫助以来、新陰流の剣術の研さんを磨き、尾張徳川家の指南役として活躍し、末裔は現在なお世界に「兵法柳生新陰流」を発信している。
単に剣術の腕前なら、兵庫助や連也斎が強いかもしれない。

しかし、十兵衛と兵庫助はともに自分の往くべき道を心得ていた。殺人剣ではないのだ。腕前を単純に競ったりしない。
勝負させられた柳生宗冬と柳生連也斎には、あまりに立場上のゆとり(宗冬は幕政に参与する将軍家指南役)が違い、剣術において同格の者が勝負する年齢(12歳差)にしてもまた違いすぎた。
どちらが強いか・・とは殺人剣でこそ争うレベルの話である。

宗矩「治国平天下」の剣 (大坂の陣 そして活人剣へ)

▼柳生宗矩が自ら人を斬り殺したと記録されているのは「大坂夏の陣」での7人だけだとされている。
これが事実であれば、「活人剣」を掲げる柳生新陰流の宗矩らしい逸話ではある。
柳生宗矩は大坂冬の陣(慶長19年1614年)では徳川家康の旗本として参陣していたが、翌慶長20年の「大坂夏の陣」では、将軍・徳川秀忠の旗本として身辺警護に当たっていた。
濠を埋められ丸裸の大坂城を打って出た豊臣方の各部隊は、5月6日最後の猛攻に出た。
真田隊が家康本陣に深く斬り込むほどの乱戦で、岡山の徳川秀忠本陣も攻め込まれ秀忠自身が槍をとって戦うありさまだ。
混戦の中、たちまち馬まわり衆は敵と切り結んで、秀忠の護衛は宗矩一人となった。
このときを逃さず、大坂方・木村重成配下の木村主計(かずえ)率いる鎧を付けない軽装の赤槍隊35人が襲撃を仕掛けてきた。

宗矩は秀忠の馬前に立ちはだかり、赤槍隊の先頭武者を脳天から槍もろとも斬り下げ続く2人も倒したところで秀忠を振り返って主人に声をかけた。
「上様、ご安堵あってご見物を。人を斬るとはこうするものでございます。」
秀忠は、宗矩が7人を斬り倒すのを数えた。
7人斬って呼吸も乱れない宗矩に恐れおののいて、残りの敵兵は逃げ去った。
剣豪で知られた宗矩が人を斬ったのは、将軍秀忠の危機を救ったこのときが最初で最後だったとされる。

▼大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川の政権を大きく脅かす材料はなくなった。
大御所徳川家康はこの年の5月に元号を「元和(げんな)」にあらためた。

元和とは「平和のはじめ」のこと。
平和が成った世に、「武器を倉にしまってカギをかけ、二度と出さない」決意を世に示したもの、『元和偃武』(げんなえんぶ)の宣言である。

「一国一城令」(一つの藩に城は一つだけ、その他は破却すべし)、武家の生き方を定めた「武家諸法度」、公家や朝廷が政治に関与しないよう規制した「禁中並公家諸法度」、社寺に対する統制法度などなどを矢継ぎ早に出して各勢力に承知させた。
幕府を唯一絶対の統治権者にしたてて、日本の平和を恒久化する仕組み作りを精力的に推し進めたのだった。

▼幕府という軍事政府の圧倒的な力で、武力が必要ない世を造ることを目指すものだ。
相手を殺す技術「兵法」は武士の心得として励まねばならないが、今後は実戦を求められない必要度の低いものになってゆく、そういう時代がやってきたのだ。
兵法・剣法に対する時代のニーズが「殺人刀ではなく 活人刀にある」ことをいち早く認識したのが柳生宗矩だった。
多くの武芸者は立ち合いに勝つことを目的とした流派を競っている中で、宗矩は、精神修養を一体と為す「剣禅一如」を掲げ、「治国平天下の剣」、国を治め天下の平和を保つための兵法・剣術へと柳生新陰流を昇華していくことに心血を注いだ。

それこそが、他流とは明確に区別される柳生新陰流の価値であり、徳川幕藩体制を支える兵法家の存在意義といえた。
「ひとりの悪人が、一万人の善人を苦しめているときに、その悪人を殺して一万人を救うことが真の活人剣である。」と宗矩はのちに述べている。
悪を懲らしめ善を行うことが政治の根幹だと言っているのだ。

▼剣術者としての柳生宗矩とよく比較されるのが同時代に生きた宮本武蔵だろう。
武蔵の剣は、相手を斬り倒す術の徹底的な修行の中に武者としての哲学を見出した。
宗矩は丸腰から相手を制圧する「無刀取り」を土台に、「人を活かし天下を治めるための剣」を志した。

宗矩とともに秀忠の指南役を務めた小野次郎右衛門忠明(一刀流)もまた、武蔵と同じ着想からの剣術であり、おのずとそこには見つめる先が柳生新陰流とは異次元のものであったといえよう。

武蔵対宗矩の勝負を武蔵は望んだそうだが、哲学が違う。意味のある立ち合いとは思えない。

将軍が剣を修めるということは強い剣士になるためではなく、統治者としての心得を習得するためのものであることが、小野忠明(小野次郎右衛門)にも武蔵にも理解できていなかった。

宗矩 将軍家兵法指南役の胆力 坂崎事件とあいつぐ大名改易

▼德川幕府初代征夷大将軍・徳川家康は豊臣氏の滅亡を見届けるのを待っていたかのように、元和2年(1616年)4月、病気で死去した。
徳川家康が将軍に就任するとき、宗矩は秀忠の兵法指南役を命じられた。
2年後、徳川秀忠が二代将軍に就任すると、自動的に宗矩は「将軍家兵法指南役」ということになった。

宗矩が家康の兵法指南役でありながら、「将軍家康」の指南役になる前に秀忠の指南役に出されたのには家康の深い配慮があったに違いない。
石舟斎が果たせなかった夢をいまようやく現実のものとして、名実ともに「日本一の兵法者」として宗矩は父を超えたのだった。

▼家康が亡くなった元和2年(1616年)には、柳生宗矩にとって最もつらい事件の処理を迫られることが起きた。9月に起きた「坂崎出羽守の反乱」である。
坂崎出羽守直盛(前の名を宇喜多詮家)は、元宇喜多家に仕えた一族の大身であったが、当主の宇喜多秀家と折り合いが悪く、家を飛び出して関ケ原の合戦では徳川方に加わった。

戦功をあげ、その後大坂の陣での功を加えて石見国津和野3万4千石の藩主となり、家康の命で宇喜多姓を「坂崎」にあらためていた。
大坂夏の陣で、落城する大坂城から豊臣秀頼の妻となっていた秀忠の娘・千姫の救出に尽力し、(有力説によると)その功により千姫(推定19歳)の再嫁先の周旋を将軍秀忠に任されていたという。
さる公家との縁談を取りまとめ将軍秀忠の合意も取り付けたというときになって、千姫本人が再婚にノーと言い出した。
紆余曲折、どうしても再婚をというなら、桑名藩主・本多忠政の嫡子・本多忠刻(ただとき)に嫁ぎたいと言い出した。
千姫側が坂崎の縁談を先送りしている間に秀忠が坂崎を説得して詫びれば大事にならなかったであろうが、それもせずにずるずると日を過ごしたあげくにことわりもないまま千姫と本多忠刻との結婚が発表された。
坂崎出羽守の面目は丸つぶれである。
騒乱の世が収まってまだまもない。世情もまだ必ずしも徳川が盤石の政権になったとはいいがたい不安定なものだった。

教科書に出てくる「正長徳政一揆」の碑

▼坂崎直盛は激怒し、「このうえは千姫の輿を奪って京都へ連れ参らねば武士の面目が・・」という厄介な展開になって、江戸の坂崎屋敷はにわかに騒然としてきた。
近隣の大名家や坂崎の家臣からも幕府に注進があり、幕府は兵力を出動させて坂崎邸を包囲した。

老中協議のうえ「お家断絶を恐れるなら、主人に自害を勧めよ。さすれば世継ぎを立てて家の存続を保証しよう」という書状を家臣宛てに用意し、坂崎直盛の親しい知己である柳生宗矩が説得の使者に選ばれて出かけた。
当時の宗矩は将軍家兵法師範で旗本3千石の身分だった。

将軍家を相手に反乱を起こしたのである。老中側に家名の存続の気持ちなどはなからなかったが、それは宗矩には知らせずにおいた。
事情を知った老中の一人本多正純はその不誠実をなじって書状への連署を断ったくらいだ。

▼柳生宗矩は「身に寸鉄も帯びず、単身坂崎邸に乗り込む」と、諄々とことの理非を説いて親友・坂崎直盛の切腹と引き換えにお家存続を約束して坂崎を承知させ屋敷を後にした。
坂崎出羽守直盛は宗矩の説得を容れた後、ヤケ酒をあおって不覚にも寝てしまった。
お家を案じた家老・坂崎勘兵衛が主人の寝込みを襲って殺害し、その首を自害したとして幕府に差しだした。

幕府の調べを経ずに首を届け出た坂崎家に不審をもって、徳川秀忠が役人を遣わし調べさせると、家老による暗殺だったことが露見した。
「もってのほか」と秀忠は坂崎家の所領没収と家名断絶を命じた。虚偽を届けた家老は斬首とした。
不本意ながらも幕府の意向に沿った結果を導き出したかたちの宗矩は、褒美として坂崎家の屋敷と武具・什器そして「並び笠」の家紋を拝領して柳生家の替え紋に加えた。
柳生十兵衛以後事実上の定紋として扱われた「柳生笠」の紋はもともと坂崎家の紋だったのである。

▼この坂崎事件が起きるまでの柳生家の代々の定紋は「吾亦紅に向かい雀(別名 柳生笹)」であった。
時代劇を注意してみていると、石舟斎や宗矩は「吾亦紅に向かい雀」を正装につけている。
筆者の家の代々の家紋も「吾亦紅に向かい雀」で、これは柳生家独占紋といわれ、柳生家以外は使用しないしきたりである。

山岡荘八氏の『春の坂道(改題・柳生宗矩)』に描かれる場面では、「坂崎家が裕福で什器に家紋があまりに付きまくっていたので、いっそ拝領した並び笠紋を柳生家の定紋に替えてしまえ」という展開だ。
内心、宗矩は坂崎とのお家存続の約束を果たせずに死なせたことに深い悔恨の気持ちを持ったろう。
坂崎の嫡子平四郎と家臣二人を引き取り、柳生家が坂崎家の家紋を使うことで、坂崎への詫びの気持ちと終生自らの無力さを忘れぬ戒めの証にしたかったのではあるまいか。

将軍秀忠にしても、坂崎をだましたことの後ろめたさはあったろう。
そこにおもねるくらいの配慮が宗矩にあっても違和感はない。

▼政権は徳川氏世襲で平和国家経営を維持していくことが示されると、武功派の出番はなくなりいわゆる文治派大名が取り仕切る世の中になってゆく。
二代将軍秀忠は、偉大な初代と生まれながらの三代将軍に挟まれて地味な印象だが、大名の統制策に力を注ぎ、弟の松平忠輝(越後高田60万石)をはじめ、諸大名への権威の誇示に次々と大名諸家を取り潰した。
福島正則(安芸広島49万8千石)、田中忠政(筑後柳河32万1千石)、最上義俊(出羽山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)など家康時代に手が付かなかった有力外様大大名を次々に改易(取り潰し)して、外様21家、譜代14家を廃絶に追い込んだ。
実は歴代将軍家の中で最も大名家の取り潰しを断行して豊臣時代の領国体制を根本から刷新した強面将軍であったのだ。

柳生家の弟子

▼大名家の改易・転封(国替えにより勢力をそぐ施策)を断行するには、確たる証拠(言いがかりの材料)が必要だ。
各藩の動静を細かく調べ、その実情を正確に把握して有無を言わせず突き付ける。
これを実行するには、そのための特命調査機関は必須である。
将軍家兵法指南役としての柳生家は、将軍家御家流たる数多の門弟を育て、各藩はその門弟らを競って自藩の指南役に迎えた。
一つには柳生の門弟を迎え入れることで、幕府への藩の透明性と忠誠心をアピールして藩の存続をはかる大名側の思惑もあったのだろう。
しかし、送り込まれた門弟たちは、各藩の剣術指南役として容易に藩のトップシークレットにアクセスし、そのまま柳生本家に情報を送り返す諜報網の役割も果たすわけである。
柳生家はまた代々父祖の地が伊賀国に接して伊賀者との交流も深く、家康時代からの密命もあり、隠密探索の術を心得た伊賀者を多数手先に使っていたことは疑いない。

そういう「忍びの者」が様々な民草に姿を変え、諸大名の失政を探索しその証拠をつかみ取って宗矩のもとに報告した。
探索を受ける諸大名から見れば、だんだん柳生機関に対する恐怖が増してくる。
柳生新陰流を掲げる柳生家が単なる将軍家兵法指南役ではない、諜報機関としても強みを持ったゆえんだ。

幕府惣目付 柳生但馬守宗矩 天下統御の剣

▼二代将軍・徳川秀忠は、元和6年(1620年)に自らの娘・和子(まさこ・東福門院)を後水尾天皇のもとに入内させた。

徳川体制に脅威となる武功派の大名を次々に取り潰す傍らで、朝廷にもくさびを打ち込み平清盛よろしく次の天皇の外祖父を狙った政略である。
地味な二代目は、着々と初代顔負けの政治手腕をみせて徳川政権を盤石にしていった。
元和9年(1623年)、秀忠が上洛、翌月、家光も上洛した。
そして秀忠が二代将軍職を辞職し、長男の徳川家光が三代将軍に任命されたのである。

▼初代家康が江戸城の秀忠に将軍職を譲った後も駿府城で「大御所」と称して天下の差配をしていたように、引退した前将軍秀忠も、江戸城西の丸に移って「大御所政治」を行った。
それと同時に、宗矩は新将軍三代家光の兵法指南役を命じられた。
宗矩は寛永6年(1629年)に、家光の奏請で「従五位下・但馬守」に任官した。
これより柳生但馬守宗矩となる。

▼二代将軍・徳川秀忠が死去した寛永9年(1632年)12月、宗矩は三代将軍・家光から幕府「惣目付(そうめつけ)」(のちの大目付)職に任命された。

これは秀忠時代に宗矩が手を染めてきたいわば「汚い仕事」の役務を、家光が公認の職務として位置付けてやることで、宗矩の地位と権能が脅かされぬよう保証してやったものである。
「将軍や老中に代わって庶政を監察して、大名以下を監督、政務の得失を検断する役職。」

宗矩のほかに水野守信(水野河内守守信)、秋山重正(秋山修理亮重正)、井上政重(井上筑後守政重)が同役で、四名の配置であった。
職掌が広いため大名・旗本らの訴訟に当たって評定所に陪席したり軍奉行をも兼務した。

▼あからさまに言えば、諸大名の動向を観察諜報するのが最も大事な職務で、いわば現代の米国CIAのような組織の長官職だ。

驚くべきことに、職権の対象は老中各位にまで及んでいたといい、大目付から将軍に直接報告できるシステムであったので、酒井忠世、土井利勝酒井忠勝らの幕府重役も大目付にはびくびくしていたのだという。
定数四名の役職とはいえ、それぞれに専門分野を持っていたようで、情報収集能力、情報処理能力と各機関との折衝能力はずば抜けて柳生宗矩の独断場であった。
各大名家に出向させた新陰流ネットワークは大きくいかされてきたのだった。

柳生陣屋跡

宗矩が大目付職に在職したのは寛永13年(1636年)8月までの4年足らずの期間ではある。
3,000石程度の旗本があてられる役職で、柳生宗矩が加増によって1万石の大名となったために役職の適格性を欠いたためであろう。

▼三代将軍・家光は生涯で三度京へ上洛している。
その三度目は、寛永11年(1634年)6月から8月のことで、30万7千人の随行軍勢を従え、朝廷と各大名家にその威勢を見せつけた。

過去二度が10万人規模であったことを考えると、各方面に対する威圧の意気込みが分かる。
日本史上最大動員の軍勢ではないだろうか。
この上洛は、柳生宗矩が惣目付在職中のことで、上洛には大きな理由があった。

▼寛永6年、朝廷が出した高僧に対する紫の衣の勅許を幕府の承認がなされなかったことを理由に撤回させ、それに抗議した大徳寺の沢庵(たくあん)らを配流に処する「紫衣(しえ)事件」が起った。
沢庵の紫衣は幕府の法に反してはいなかったが、沢庵のほうが幕府の介入に猛抗議した結果、出羽の国へ配流されたのだ。

また家光の乳母お福(春日局)を天皇に強要して拝謁させるなどの関係悪化があり、後水尾天皇をついには退位に追い込んだ。
お福が上洛した折に、「秀忠の娘で帝の女御和子(まさこ)が生んだ興子内親王を帝位に就けるため」の工作をしたといわれる。
後水尾天皇は怒り、「退位」を宣言し、次の歌を詠んだ。

「芦原よ 茂れば茂れ おのがまま
とても道ある 世とは思えず」

余談だが、お福は明智光秀の重臣・斎藤利三の娘で、公募で家光の乳母に抜擢されたという経歴を持つ。
家光が将軍継子の危うい状況の中、家康に直に掛け合い、秀忠夫妻が溺愛する次男忠長の将軍継承を阻んで、三代・徳川家光将軍を確定的にしたやり手である。

▼寛永6年(1629年)、紫衣事件とお福(春日局)の強引な無官参内で幕府に憤った後水尾天皇は第二皇女に譲位した。
紫衣の授与は朝廷の収入源でもあったのだった。

すでに元和9年(1623年)から将軍職は三代・徳川家光となっていて、徳川秀忠(1632年没)の大御所時代の出来事である。
後水尾天皇と秀忠の娘・東福門院源和子(「かずこ」だが、濁音を嫌う朝廷は「まさこ」と読み替えた)との間に生まれた興子(おきこ)内親王が、わずか7歳で第109代天皇に即位した。
後世、「明正天皇」と呼ばれる女帝である。すなわち秀忠の孫、家光の姪にあたる。

父・後水尾上皇の「院政」が敷かれ、女帝は終生独身が習いなので、幕府の思惑は外された格好だ。
明正天皇(興子)は寛永20年(1643年)、21歳の時に異母弟・後光明天皇に譲位した。
退位後はのちに出家し太上法皇となり、五代将軍徳川綱吉の治世、元禄9年(1696年)に74歳で崩御している。

▼さらに寛永9年、肥後熊本51万石の藩主・加藤忠広(加藤清正の子)が妻子を幕府の許可なく帰国させたという幕法違反事件で改易(お家取り潰し)させた。

また、家光の実弟である駿河大納言・徳川忠長(駿府55万石藩主)の不行跡を理由に蟄居の上、上州高崎で自害させている。

▼こういった一連の幕府が主導した騒動に対する朝廷や諸大名の不満も生じ、威圧のためにも寛永11年(1634年)の30万7千人規模で徳川家の権勢を誇示しようと行われた将軍家の上洛だった。

上洛の前年に宗矩は街道巡検を行い、また30万余の上洛差配にも活躍した。
幕府の威信を賭けた柳生宗矩、最初の惣目付職としての大仕事である。

剣禅一如

▼沢庵禅師は柳生宗矩と深く親交し、最も影響を与えた禅僧である。
出会いは元和6年ごろとみられ、九州鍋島家へ宗矩が出かけていた時ではないかとする研究者もいる。
長い交際で、宗矩の新陰流剣禅一如の精神に大きな影響を与えている。

沢庵は宗矩に請われて剣の精神的な奥義書『不動智神妙録』を著している。
その著は最後を一首で結んでいる。

「心こそ 心迷わす 心なれ  心に心 こころゆるすな」

禅思想の境地であろうか。
寛永9年の秀忠他界による恩赦で、紫衣事件以来の出羽配流は解かれている。

▼一説に、家光が秀忠時代を主導した天海や大御所秀忠の取り巻きグループの口出しに対して嫌悪を持っており、自らともに育ってきた松平信綱(松平伊豆守信綱)や阿部忠秋らのグループを中心とした幕府運営にシフトしたい・・その支柱として沢庵を顧問に迎えたいという気持ちが強かったといわれる。

少なくとも宗矩は家光の心中をそう察しており、京へ戻りたがっていた沢庵を無理にも引き止め、家光の相談相手になるよう説得を続けた。
沢庵が最後まで宗矩のスカウトを断り続けたのは次の歌で宗矩に答えたことで察せられる。

「御意なれば 参りたくあん(沢庵)おもへども むさしきたなし 江戸はいやいや」

沢庵の歌の解釈だが私(筆者)はこう思っている。
慶長9年(1604年)に21歳の宮本武蔵は、京都一乗寺下がり松付近で吉岡清十郎の門弟たち70人ほどと決闘した。
桶狭間合戦のごとくまず大将を討ち取って敵を大混乱に陥れるしかない・・と作戦を考えた武蔵は、試合前から松の樹の上に潜んでいて、奇襲一撃で名目上の決闘相手・清十郎の遺児で幼い又七郎を斬り殺した。
のちまでも、幼子をまず斬るなんて「武蔵は汚い」とののしられたゆえんだ。
この「宮本武蔵は汚い」を江戸のある「武蔵国」に引っ掛けているようだ。

「江戸はいやいや」のほうだが・・

初代将軍徳川家康の馬印から思いついたのであろう。
『厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)』である。

意味は「誰もが欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土(えど)を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という浄土教のキャッチフレーズであった。

すなわち、「穢土(えど・江戸)はいやいやよ~」
という感じのエスプリとブラック・ユーモアの効いた返歌を狙ったのではないかと私は思っている。
家康自身、江戸は穢土に通ずることを意識していたはずだ。
無為な縁起担ぎによる地名改名を避け、現実問題と正面から取り組む覚悟を決めていたために敢えて「江戸」のままでおいたのだろう。

沢庵の配流の赦免に宗矩が奔走していたのは言うまでもない。

▼家光自身からの懇望申し出もあったが、宗矩は一つの策を思いついた。
どうしても京へ戻るという沢庵に同行して鎌倉五山を案内したのだ。
沢庵もそれには関心があり、宗矩の誘いに乗った。
そこに沢庵が見た五山は荒れ果てて悲惨の限りであった。
かつて鎌倉北条執権家にも影響力をもっていた五山の各寺院が見るも哀れなあばら寺の姿をさらしていた。
沢庵は絶句して立ち尽くした。


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「寺にも外護者(スポンサー)が必要です。外護者なき寺はどのような名刹もこのようになり果てるものです」

宗矩の脅しは沢庵を怒らせたに違いないが、いったん京の大徳寺に戻った沢庵は、二年後に江戸へ出府してきた。
東海道筋の江戸の玄関にあたる品川に家光が「東海禅寺」を建立して沢庵を開山とし、以後将軍家光の顧問格としてさまざまな相談にあずかった。

▼柳生宗矩の巧みさはそれだけではない。東海禅寺が竣工するまでの沢庵の宿所を柳生家の目黒の下屋敷に定めたのだ。現在の目黒雅叙園観光ホテルの一部に当たる場所である。
家光はひんぱんに沢庵に教えを乞いに出向いている。沢庵一辺倒だ。
それが世間から見れば「上様が柳生邸にたびたびお成りになっている」という喧伝がなされる。
宗矩の謀略とはこういうスタイルでこそ発揮されたものであろう。
宗矩の志は「治国平天下」にある。私欲から出ているものではないことを沢庵もよく知っている。

「惣目付たることをまず心がけ、兵法家であることは付随的なものと考えよ」と沢庵は宗矩に説諭した。

▼このころ宗矩は新陰流の極意をまとめて記録した『兵法家伝書』を執筆している。
のちに同書は宗矩から九州肥前の小城藩主・鍋島元茂に与えられているが、理由は分らない。
宗矩が弟子として元茂を最も評価したことは知られている。

「一心多事に渉(わた)り 多事 一心に収まる」
『兵法家伝書』の結びは
「いかなる状況でも、変化に即応し、無意識のうちに最高の対応で切り抜ける境地を会得すること」
それが柳生新陰流の極意であることを記している。
勝負において、自己の精神をいかに制御するか、という心の持ち方を言っている。

▼沢庵が宗矩に書き与えた『不動智神妙録』はいう。

「不動とは動かずという文字にて 智は知恵の智に候。不動といっても石や木のように無性なるものではなく、向こうへも、左へも、右へも、十方八方へ 心は動きたきように動きながら、そっとも止まらぬ心、それを不動智と申し候。」
「貴殿の兵法に当てはめれば、太刀を打つ手に心をとどめず、一切打つ手を忘れて打って人を斬れ。人に心を置くな。人も空、打つ手も打つ太刀も空と心得て、空に心を取られまいぞ」

さらに能の境地にも触れて説いている。
「敵を一太刀打ってうまくいっても、そのことに心を止めず 打ちまくれ。
こころが止まれば 必ず逆襲されて負かされることになる。」

「心の病気を制圧しようとする考えもまた、一種の病気である。病気の気ままにさせ病気と交流することで病気を治すことができる。」

『不動智神妙録』は、一方で、宗矩に対する沢庵の苦言書にもなっている。
「宗矩は諸大名からひんぱんに賄賂を取り、能狂いで、大名家で能が催されると聞けば招かれもしないのに押しかけ、自らの能知識をひけらかしている。」
「金品を寄こしたり世辞を言う大名は将軍家にとりなし、そうしないものには冷たく扱っている。」
貴殿(宗矩)が権威をもって世人に人気を持っていられるのは、将軍家のお計らいなのだから、その大恩は常に忘れず、心を正しく持って忠節を尽くしなされ。」

宗矩に対する苦言が続くが、(信じがたいが)家光の君寵になれた宗矩のおごり高ぶる堕落した時期を厳しく諭している。

余は 天下の統御の仕方はすべて 但馬守(宗矩)に学んだ

▼宗矩が加増されて大名になったことで惣目付職を引いた翌年(寛永14年・1637年)に、「島原の乱」が起こった。
九州天草・島原地方で主に領主・松倉氏の圧政とキリシタン迫害に対して抵抗した農民やキリシタンらが原古城に立てこもって一揆をおこした事件である。
およそ3万7千人の領民が天草四郎時貞(益田四郎時貞)を首領として籠城したが、ローマ教皇の援軍を期待した一揆だったという説が近年出ているくらい危機的なものだった。

▼幕府は九州の諸大名に鎮圧軍としての出陣を命じ、総大将として板倉重昌(三河深溝藩1万5千石藩主)を派遣した。
板倉重昌が派遣されたことを外出先で家臣から聞いた宗矩は、
「宗徒一揆を相手にするのに、小藩主である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず、討伐は失敗して板倉は死に急ぐだけだろう」
と非常に危機感を持った。

すぐさま馬を借り、川崎あたりまで板倉重昌の後を追ったという(『常山紀談』)。
追いつくことができず日が暮れ、江戸城に引き返した宗矩は深夜に登城して将軍家光に意見したが、命令は撤回されなかった。
団結堅く一揆勢は頑強に抵抗して、統制のない幕府軍は犠牲を増やし戦争は長期化した。
ついに家光の寵愛する老中・松平伊豆守信綱を総大将として第二陣が派遣されたが、板倉はこれを聞いて恥じ、無理な突撃をして戦死した。

乱はほどなく松平伊豆守らが鎮圧したが、宗矩の卓見は見事に的中し、家光の寄せる信頼を厚くした。

▼幼いころから父秀忠と母江与の方に疎んじられて育った家光にとって、厳しくも暖かく指導する宗矩は父同然に慕って来た存在であった。
宗矩もまた、自らの息子たちにはすこぶる厳しい父であったが、家光に対しては我が子以上の愛情をもって接し、天下統御のあらゆる叡智を注いで将軍たる器に育てることに晩年の生涯をささげた。

▼「江戸定府大名」の宗矩も国元の不便を感じ、寛永19年(1642年)に柳生の領地に城代わりの陣屋を完成させ、柳生の里で過ごすことも増えた。
柳生十兵衛三厳はこの年、兵法書『月之抄』を書き上げている。
寛永21年に改元がなされ正保元年となった。翌正保2年(1645年)には宮本武蔵がこの世を去り(62歳)、12月に沢庵が亡くなった(73歳)。

宗矩はこの頃から健康状態が悪くなり、「柳生の里で死んだのでは上様に申し訳ない」と、無理を押して江戸へ出府した。

▼宗矩が病気になると、三代将軍家光は数度柳生家の下屋敷に自ら宗矩を見舞っている。
現在の目黒で「雅叙園」の南半分が柳生家の下屋敷跡だといわれる。

家光はたびたび周辺に「天下の統御の仕方はすべて但馬守(宗矩)に学んだ」と話していた。
1万石の小身大名がそこまで将軍に慕われたのである。
「一紙半銭も私せず」の剣禅一如の精神とともに生きたサムライであった。

▼正保3年(1646年)3月26日、宗矩は没した(76歳)。
遺骸は江戸・下谷広徳寺に葬られた。
幕府の奏請で「従四位下」の位が贈られた。
『西江院殿前但州太守贈従四位下大通宗活大居士』。

柳生藩の家老屋敷跡

遺領1万2,500石は宗矩自身の遺言によりすべて幕府に返上された。
「棒録は一代限り、のちのことはせがれどもの器量によって御用いこれあるべし」

徳川家光は宗矩の意志を尊重し、長子・柳生十兵衛三厳に8,300石、三男・柳生宗冬(のち柳生飛騨守)に4,000石を与え旗本とした。ともに生母は宗矩の正室おりんである。
次男・柳生刑部少輔友矩(別称左門、生母は側室で一説に烏丸光広の娘順子)は早世(27歳)し、彼の遺領2,000石は生前の宗矩が相続していた。
友矩は容姿に秀で、家光の寵童を経て出世し大名への取り立ても沙汰されたが、それ故に父宗矩の勘気を被り、致仕を命じられ柳生の里で謎の死を遂げた。
遺品には家光から友矩あての「13万石(4万石とも)を与えるお墨付き」が発見され、宗矩が家光にこれを返上したという話が伝わる。
四男・列堂義仙は宗矩66歳のときに生まれた子(生母は村の娘 お藤とも)とされていて、柳生家菩提寺・芳徳寺開祖となり寺領として宗矩の遺産から200石を与えられた。
すぐ上の兄宗冬とは22歳離れている。
人気時代劇『子連れ狼』で拝一刀の命を狙う柳生烈堂という裏柳生を率いる総帥が登場するが、もちろんフィクションで、名前はこの列堂義仙をモデルにしたことは想像に難くない。

▼家光は病床の宗矩を見舞ってさえも筆談で様々な下問をしている。
「敵の気持ちの動きによってこちらも動く。ということはすなわち、敵が我の気持ちを引き出すということになる。我は無心になって敵の心の動きに従えば勝てるのか。」
「表裏とか気前とかいうが、そのようなものは我にない。みな敵の様子によって出てくるものだ。そう理解してよいか。」
宗矩は鬼気迫る家光の問いに静かに答えた。
「上意の通りでござる。そこまでお分かりいただいたのはお手柄にござります。万事かくのごとく広いお心をお持ちくだされば、成らぬことはございませぬ。
沢庵も書いているごとく、一品に執着することが最も避けねばなりませぬ。このほかに申し上げることもござりませぬ。」
「柳生新陰流の極意、それを余すところなく学び、天下統治に生かしたい」
それが家光を最後まで突き動かした将軍たる理念、かたい決心であったろう。

柳生宗矩が情熱を傾けて育てた新陰流兵法の本当の理解者は、誰あろう泰平の世を統治していこうとする愛弟子・将軍家光自身であったことが分かるのである。

春の坂道

▼柳生家は今の言い方をすると「負け組」ではなく間違いなく「勝ち組」であったといえる。
『春の坂道』という題でかつてNHK大河ドラマで柳生宗矩を扱ったことがある。

春の坂道

ベストセラーになった超長編小説『徳川家康』を世に送り出した山岡荘八氏が、柳生の里で書き下ろした同名の小説が原作で、現在『柳生宗矩』という改題で4巻分の長編文庫で読むことができる。

▼昔のことになるが、私が妻と結婚した報告に柳生の里へお墓参りに出かけたことがある。
当時の交通事情では、北関東から行くのに往路1日、復路1日、里の民宿に2泊して中日一日を使ってくまなく関連史跡をまわった。
今回は、時間も取れないため、執筆に専念し、写真は大阪の友人に現地へ代理取材を依頼した。
心よく引き受けてくれた友人に感謝したい。

▼私の描いた柳生一族は、長い坂道を歯を食いしばりながら登っていった柳生一族。
しかし、宗矩の生涯をたどってみると不思議にしんどさ、暗さ、ネガティブな印象を受けることなく、ひたすら地味につらい顔もせず坂道を上り続けた観がある。

その姿や、欲のかけらもなく朋輩の足を引っ張ることもなく、徳川幕府に大きな功績を果たしながらも、一切の加増褒美を固辞して終生1万石あまりの身代で留まった。

▼宗矩の死から4年後に長子・十兵衛三厳は大和国で急死する。不慮の事故と伝わる(44歳)。
十兵衛には男子がなく、遺領8,300石は弟宗冬に与えられ、柳生宗冬自身の4,000石は召し上げられた。
柳生十兵衛の娘二人は宗冬が引き取って、嫁入りまで育てている。


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のちに宗冬は明暦2年(1656年)、4代将軍・徳川家綱の兵法指南役となり、翌年「従五位下飛騨守」に任官する。
寛文8年(1668年)1,700石加増され都合1万石となり、翌年朱印を受け江戸柳生家は23年ぶりに「大名」に復帰する。宗冬は江戸柳生家の3代目当主(2代目当主が十兵衛三厳)だが、柳生藩2代藩主といわれることになる。

▼宗矩を父のように慕っていた三代将軍・徳川家光も、宗矩の没後5年の慶安4年(1651年)4月20日に48歳で病死した。
4代将軍職には家光の長子・徳川家綱が就任した。

柳生宗冬のあとは(長子・柳生宗春が27歳で宗冬より先に早世していたので)、次男・柳生宗在(むねあり)が3代藩主を継ぎ、宗在に男子がなく、宗春の子俊方が4代藩主になる。
しかし俊方で男子相続が絶えてしまう。
5代俊平は桑名松平家からの養子で、以後数度 (真田家や田沼家、高家武田家などから)養子を迎えながら12代・柳生俊益のとき明治の廃藩となる。

左から 宗冬・宗矩・十兵衛・宗在の江戸柳生歴代当主の墓

代々の藩主は将軍家の剣術指南役を務めるため「江戸定府」とされ、参勤交代は免じられていた。
宗矩の後、江戸柳生家2代目当主となった十兵衛三厳が1万石を割ったため、「藩主=大名家」と「当主」の数え方にズレが生じることはやむを得ない。

▼今日、柳生の里の一族の菩提寺・芳徳寺には、石舟斎以下歴代当主と主だった一族の墓が80基ほどしずかにたたずんでいる。
とくに権威を見せつける風でもなく、一族なかよく陽だまりの午睡を楽しんでいるかのような墓所である。

柳生一族の墓

柳生宗矩にとっては、坂道とはいえ、それは天下泰平の春の訪れの中を登っていく陽の当たる坂道であったかのように。(終)

以上、柳生石舟斎と柳生宗矩らのご紹介でした。

(寄稿)柳生聡


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※参考資料
・別冊歴史読本「柳生一族 新陰流の剣豪たち」2003年 新人物往来社
・「年表式 日本史小事典」1993年 文英堂
・歴史街道 2003年4月号「特集 柳生石舟斎 強く静かに生きる知恵」PHP研究所
・プレジデント 1992年12月号 「特集 柳生三代 剣の奥義は人生の極致に通ず」
・「定本 大和柳生一族」今村嘉雄著 1994年 新人物往来社
・「柳生宗矩の人生訓」童門冬二著 2003年 PHP研究所
・「物語と史跡をたずねて 柳生宗矩」 徳永真一郎著 1978年 成美堂出版
・「新訳 兵法家伝書 強いリーダーの条件とは何か」柳生宗矩著 2012年 PHP研究所
・「負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術」柳生耕一平厳信著 2011年 ソフトバンク新書
・「柳生一族 将軍家指南役の野望」 相川司/伊藤昭 著 2004年 新紀元社
・「剣聖 上泉伊勢守」宮川勉著 2015年 上毛新聞社
・「上州の150年戦争 戦国史」青木裕美ほか著 2012年 上毛新聞社
など

剣豪にして大名の柳生宗矩が眠る東京の広徳寺~柳生家の墓所
柳生十兵衛とは 江戸時代に活躍した新陰流の剣豪
北畠具教と雪姫~信長に乗っ取られた伊勢国司の末路
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