酒井忠勝の解説~初代庄内藩主となった酒井忠次の孫

酒井忠勝





酒井忠勝とは

酒井忠勝(さかい‐ただかつ)は文禄3年(1594年)、酒井家次の長男として生まれました。
生母は家次の正室となった榊原政吉の娘、父方の祖父には徳川四天王・徳川十六神将双方の筆頭として名高い酒井忠次がいます。

高名な親や祖父を持つ忠勝ですが、当人の少年期にまつわる事績や動向は不詳で、元服した時に主君である徳川秀忠から一字を拝領して忠勝と名乗ります。
彼が歴史の表舞台に現れるのは慶長14年(1609年)1月23日に宮内大輔に任ぜられ、時に数え年で15歳でした。

元和4年(1618年)に父の家次が亡くなると、同年の3月に24歳で家督を継ぎ、同時に家次の地位であった越後・高田藩(新潟県上越市)10万石を引き継ぎます。
それから2年後には信濃松代藩(長野県長野市)へ移封され、ここでも10万石の大名として藩政にあたりました。



主に中部地方で活躍していた忠勝が東北の藩である庄内へと赴いたのは、元和8年(1622年)の事です。
これまで出羽(山形県)の大半を支配していた最上義俊(最上義光の孫)がお家騒動を理由に改易され、忠勝はそれに替わる形で出羽庄内藩13万8千石に加増の上で移封されました。

忠勝は庄内入部の後、酒田の亀ヶ崎城から鶴ヶ岡城へと居城を改めて整備を開始し、入部の翌年には総検地を行って5万3千石を超える増加を見込むなど、庄内での藩政も精力的に打ち込みます。
また、寛永9年(1632年)に改易で肥後熊本藩を追われた加藤忠広(加藤清正の息子)を受け入れ、彼に領内の丸岡1万石を与える見返りとして幕府から亡き実弟・酒井直次の領有していた左沢1万2000石を与えられて14万石の表高になりました。

こうして、最上氏の旧領を引き継いだ藩の中でも忠勝率いる庄内藩の勢いは増し、中心的な存在に躍り出ます。
一方、忠勝が励んだ総検地も良い事ばかりではなく、石高が増したがために民衆への負担も増したのです。
寛永11年(1634年)に民の逃散が理由で遊佐郡の大庄屋・高橋太郎左衛門が幕府に上訴して一時は投獄される事件が発生し、庄内藩に深刻な影響を与えました。

また、その先年に苛政を理由として実兄・忠勝のもとに預けられる処罰を受けた元・村山郡白岩(山形県)の領主だった忠重が長兄の嫡男である忠当(松平信綱の娘を妻とする)を廃嫡させ、筆頭家老の高力喜兵衛らの追放、そして自らの息子と忠勝の娘を婚姻させてお家乗っ取りを目論んだ事件が寛永19年(1642年)に起こるなど、忠勝の晩年は政治のみならず後継者問題にも悩まされたものでした。

このお家騒動が起きて5年後の正保4年(1647年)の10月17日、酒井忠勝は53年の生涯を閉じ、嫡男の忠当が岳父で老中の信綱による裁定で2代藩主を継承します。
対立して悩まされた忠重は忠当によって2万両を与えられて義絶、やはり懸念であった整備中の鶴ヶ岡城は孫の忠義によって完成しました。



幕末に会津藩と共に戊辰戦争を戦い抜いた東北諸藩のひとつとして名高い庄内藩ですが、その草創期は戦国の遺風残る江戸初期と言う事もあって困難続きであり、波瀾と苦闘に満ちた酒井忠勝の半生は、そうした歴史を体現するものであったと言えます。

(寄稿)太田

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