松平信綱 知恵伊豆と呼ばれた老中

松平信綱

松平信綱とは

松平信綱(まつだいら-のぶつな)は江戸時代の武蔵・忍藩主、川越藩主を務めた大名で、江戸幕府においては老中首座となりました。
父は、徳川家の家臣である大河内久綱(おおこうち-ひさつな)で、母は北条氏房の家臣である深井好秀の娘です。
大河内家は当時700石の家柄だったようで、代官の身分だったと推測されます。
父の弟である松平正綱(まつだいら-まさつな)は、徳川家康の命にて松平正次の養子となって松平姓を称して、徳川家康の近臣となり駿府城で隠居した徳川家康にも傍で仕えます。


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そんな叔父の子のほうが、出世できると考えたのか、まだ、幼かった松平信綱は、本人が希望して、父の弟である松平正綱の養子になることを願ったと伝わり1601年に養子縁組をしました。
そして、1603年、徳川秀忠と徳川家康に謁見し、1604年に徳川家光が誕生すると小姓となっています。

1613年、のち遠江・横須賀藩主となる井上正就の娘を正室に迎えています。
ただし、1620年の時点で石高は500石と、まだ身分は低い状態でしたが、1623年には御小姓組番頭となり800石となっています。
また、徳川家光の上洛に同行すると「伊豆守」に任官しました。
幼少の頃よりから、英知に優れていた松平信綱は、この伊豆守にちなんで「知恵伊豆」と呼ばれる次第です。

こうしてドンドン出世するようになり、1628年には相模国高座郡・愛甲郡に加増を受けて1万石の大名に列しました。
1632年、徳川秀忠が死去すると、老中にも任じられて小姓組番頭を兼務しています。
その頃、養父・松平正綱は、相模・玉縄藩主で2万2100石となっていますが、日光東照宮の造営に従事し、世界最長の並木道である日光杉並木を寄進したことでも知られています。


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松平信綱は、1633年に3万石となり、武蔵・忍藩主になり、柳生宗矩春日局と共に徳川家光を支え老中職務定則や若年寄職務定則を制定しました。
1635年には、寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制も制定し、徳川幕府の体制を固めています。

1637年、天草四郎による島原の乱となると、総大将として板倉重昌を派遣します。
しかし、板倉重昌が討死すると、代わって松平信綱が幕府軍の総大将となって指揮を執り一揆を鎮圧しました。
その軍功により、1639年、川越藩6万石と加増され、城下町の整備などを行っています。
また、キリシタンの規制を強化し、オランダ人の上陸も、長崎の出島に限定し鎖国制度を完成させました。

1638年、土井利勝が大老になると、松平信綱は老中首座として幕政の最高責任者となっています。

1651年、徳川家光が没すると、第4代将軍・徳川家綱を補佐し、大名からの信頼も厚く参勤交代を制度化などしました。
1657年、明暦の大火では大奥女中を無事に避難させるなどの対応も行っています。


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1662年、病となり、老中在籍のまま死去。享年67。
嫡男・松平輝綱が7万5000石の川越藩を継いでいます。

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