剣豪にして大名の柳生宗矩が眠る東京の広徳寺~柳生家の墓所

▼徳川将軍家剣術指南役・柳生家の菩提寺は、かつて上野の近く「下谷」にあった。
大正時代の関東大震災で全壊したうえ、区画整理の都合もあって練馬に墓所ごと移転した。
西武池袋線の「練馬」駅から歩くこと十数分、住宅街に森が現れ、臨済宗広徳寺の立派な山門にたどり着く。

▼山門に『拝観謝絶』と立て札が立っていて、踏み込んでいいものか、ためらう。
お寺関係者と思しき年配の男性に声をかけてみる。
大名墓地が多いため「観光気分の訪問者」と思われたのだろうか、きびしいお言葉をいただいた。
が「先祖のお墓参り」で上州から来たことを伝えると、墓地の前まで丁寧に案内してくれた。

新陰流は、上州の上泉伊勢守が創始した。
箕輪城(高崎市)が武田信玄に落とされた後、そこの家老だった上泉は西国への旅に出て、柳生石舟斎と運命的な出会いをした。
のち柳生石舟斎の子・柳生但馬守宗矩が徳川に仕えて「柳生新陰流」が世に出ることになる。

お寺の裏手に広がる墓地の左手に、きれいに区画された諸大名家の墓地が並ぶ。その一番手前に『柳生家』墓所がたたずむ。
隣は背を向けた加賀百万石前田家分家・大聖寺前田家、加えて横向きのひときわ大きい公爵近衛家に挟まれ、われらが1万石はちょっと肩身が狭そうではある。


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▼右手から初代藩主・柳生宗矩(やぎゅう-むねのり)、二代当主・柳生十兵衛三厳(みつよし)、三代・柳生飛騨守宗冬と子爵家の墓石が並ぶ。
左の奥は大聖寺藩前田家(百万石加賀藩の支藩)。

柳生家墓所

看板に書いてある四代・柳生宗在(むねあり)のものはなく「子爵柳生家代々の墓」の都合四基が並んでいる。
摩滅していて文字が読めないが、四代・柳生宗在(むねあり)は柳生宗冬墓か子爵家墓と合葬したのかもしれない。
柳生宗冬のあとは長男・柳生宗春が継ぐはずだったが、早世し次男の柳生宗在が藩主となった。

下記写真は家紋の「柳生並び笠」が彫られている写真。

柳生並び笠

▼織田、松平、立花、小笠原、細川…どの大名家の墓所もずっしりとした3~4メートルの巨大な塔で、参拝者も圧倒されそうだ。
もはや建築物と言っていい。重量計算と耐震規制はクリアしているのか…なんて。
私の感じ取れるところは、柳生宗家子孫の後世「経済力」が反映されている風でもあり、とりわけ公爵近衛家はダントツの威風だったこと。
厳粛な場所だから、その姿勢で尋ねてください。
末裔による墓参としてお参りの許可を頂きましたが、観光見学はできないようです。
なお、他の方の広徳寺訪問記を読むと「見学」は許可しないが、縁者以外の方で丁重な「お参り」は、許可される場合もあるようだ。


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下記は加賀藩宗家から分家した支藩・大聖寺藩前田家の墓所で、石塔は群を抜いて大きい。
前田宗家は金澤の野田山墓地となる。
加賀藩の第3代藩主・前田利常が隠居する際、次男・前田利次に富山10万石を、三男・前田利治に大聖寺7万石を割いて、富山藩と大聖寺藩が立藩された。

加賀・前田宗家の墓

(寄稿) 柳生聡

柳生石舟斎と柳生宗矩~柳生新陰流「天下統御の剣」~治国平天下

柳生十兵衛とは 江戸時代に活躍した新陰流の剣豪

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