斎藤義龍 斎藤道三の嫡男として斎藤家を率いるも・・





斎藤義龍(さいとう-よしたつ)は1527年7月8日に生まれた。
父は斎藤道三で、その嫡男として誕生。
母は、斎藤道三の側室・深芳野(みよしの)。
斎藤義龍の初名は斎藤利尚、斎藤高政(さいとう-たかまさ)。

斎藤義龍の正室は、近江の方(浅井久政の養女、浅井亮政の娘)

1554年、斎藤道三が隠居し、22歳の斎藤義龍が斎藤家の家督を継いで稲葉山城主となった。
しかし、斎藤道三は斎藤義龍を暗愚と決め付けて嫌い、次第に弟・斎藤孫四郎斎藤喜平次らを寵愛するようになり、斎藤義龍を廃嫡して、正室・小見の方の子である斎藤孫四郎を嫡子にしようと画策。
斎藤喜平次には名門・一色家を継がせたことから、斎藤道三と斎藤義龍の関係は悪化した。


1555年、斎藤義龍は叔父・長井道利と共謀して仮病を装い、弟の斎藤孫四郎・斎藤喜平次らを日根野弘就に殺害させた。

1556年、斎藤義龍(30歳)は、斎藤道三を討つために挙兵。
斎藤家の家臣の多くは、斎藤義龍に味方した。
ただちに、斎藤道三の娘・帰蝶(お濃)を正室としていた織田信長が救援に向かうも間に合わず、斎藤道三は長良川の戦いにて討死した。
斎藤道三は、斎藤義龍の見事な采配に「しばらくは斎藤家も安泰」と述べたとされる。

斎藤道三の末子・斎藤利治が織田家に亡命した為、織田信長は偏諱を与えられ斎藤長龍と改名させ、美濃斎藤家当主を名乗らた。

斎藤義龍は父殺しの汚名を避けるためか、将軍家・足利義輝に一色氏を称することを願い出て、足利家一門である一色氏を称し、一色左京大夫義龍と名乗った。

また、父に味方した、同じ一族の明智氏の美濃・明智城などを攻撃して滅ぼしたと考えられている。

内政では貫高制に基づき安堵状を発給し、長年の内乱で混乱した所領問題を適切に処理。
そして、宿老による合議制を導入するなど、戦国大名としての基礎を築いた。


1558年、斎藤義龍は治部大輔に任官。

1559年、足利幕府相伴衆に列せられ戦国大名としての大義名分を得た。
そして、織田信長が供を連れて上洛した際には、道中に火縄銃の手勢を配置し、暗殺を謀ったが失敗している。

更に南近江・六角義賢と同盟を結び、北近江・浅井久政とも合戦をしている。
 
しかし、尾張・織田信長の侵攻がより激しくなり、勢力拡大には至らなかった。


1561年、左京大夫(左京兆)に任じられたが、1561年5月11日に急死。享年35。
元々持病があったとされる。

家督は子・斎藤龍興が継いだ。

織田信長と言う人物に迫る~【織田信長】の性格・人柄は?
斎藤道三~権謀術数を駆使し大名になった美濃の蝮
深芳野とは 斎藤道三の側室になった稲葉家の女性
小見の方 (おみのかた)  斎藤道三の正室になった明智家の女性
斎藤道三とは 生涯をわかりやすく簡潔に2分で
長良川の戦い 長良川合戦を2分で分かりやすく解説
日根野備中守(日根野弘就・延永弘就) 斎藤孫四郎らを殺害か?
斎藤龍興 (斎藤竜興)~美濃・斎藤家を継ぐもその運命は?

高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

この著者の最新の記事



コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. 2018年 12月 21日
  2. 2018年 12月 27日
  3. 2019年 6月 03日
  4. 2019年 6月 19日
  5. 2019年 6月 19日
  6. 2019年 6月 25日
  7. 2019年 7月 09日
  8. 2019年 7月 17日
  9. 2019年 8月 07日
  10. 2020年 4月 14日
  11. 2020年 4月 26日
  12. 2020年 5月 09日

CAPTCHA




ピックアップ記事

  1. 稲葉一鉄
    稲葉一鉄(いなば-いってつ)は、土岐頼芸の家臣・稲葉通則の6男として、1515年に美濃池田の美濃・本…
  2. 岩村城
    秋山虎繁(あきやま-とらしげ)は、秋山領主(山梨県南アルプス市秋山)である秋山信任(秋山新左衛門信任…


Twitter でフォロー



ページ上部へ戻る