池田光政「仁政」の心を忘れなかった生まれながらの藩主

池田光政




池田光政(いけだ-みつまさ)は、慶長14年(1609年)4月4日に池田利隆の子として備前・岡山に生まれた、江戸時代前期の岡山藩・初代藩主である。
光政は関ヶ原の戦いの後に生まれ、戦国が終わり安定した時代で藩主になった、最初の世代の人物といえる。
各地の大名は、文治政治への転換期において、豊かな国を造り、人心を安定させる必要があった。
光政は、年貢の徴収により成り立つ封建制度のなかで、徹底した仁政を貫いた藩主であったといえ、また儒学に共感した稀有な政治理念を持っていた。


その信じた理念を、いかにして政治という形にしていったのか。

転封を重ね岡山藩主へ

姫路藩主である父・池田利隆が、岡山城代を兼ねていたこともあり、光政はそこで生まれた。
光政は戦国武将の子供らしく、豪胆なところがあったという。
5歳の時、初めて徳川家康に謁見し、褒美に脇差を与えられた。
光政は拝領した脇差を抜くと、それをじっと見ながら「これは本物じゃ」と言った。
家康は天下人を目の前にしながら、少しも臆しない態度を見て、光政の資質を見抜いたのか「あの眼光の凄まじさは、ただ者ではない」と語ったという。
8歳の時、父・利隆が死去すると家督相続を許され姫路藩主となったが、翌年に江戸幕府から幼少であることを理由に鳥取藩に転封を命じられている。
そして24歳の時、従弟・池田光仲との交代で生誕の地の岡山城に戻り、31万5000石を治めることになった。

よりどころを求めた若き光政

乱世が終わり、時代の流れは大きく変わりつつあるなかで、藩主たるものは道義を無視することはできなくなってきたのであろうが、光政もそのなかの一人であったと思われる。
鳥取藩主時代に治世について悩み、夜も眠れずいつも青白い顔をしていたが、「論語」を読み会得するところがあったのか、それからは水を得た魚のように元気になり、安眠できるようになったという。
岡山藩主になった光政は、自ら定めた方向を藩政のなかで実現していくことになる。

熊沢蕃山を重用する

人物を見る明があったのは、光政の名君たるゆえんでもある。
熊沢蕃山(くまざわ-ばんざん)は、児小姓として光政に仕え、一旦は池田家を致仕して中江藤樹のもとで陽明学を学んだが、再び光政に仕えた後は、光政自身も蕃山の学問に傾倒していく。
蕃山の学問は武士に統治者としての自覚を促したものであり、特に国を治める者にとって、心の修養に先立つものはないという理念に基づいたものである。
よりどころを求め藩主となった光政にとって、蕃山の学問は藩政の確立にふさわしいと判断したのである。

陽明学とは

江戸時代に重要な地位を獲得した儒学は、孔子を祖とする儒教を学問としたものである。
儒学のなかで、朱子学は上下関係を重んじ、幕府は朱子学を官学として支配体制を構築した。
一方の陽明学は、朱子学を批判した立場から生まれたが、理念として「知行合一」があり、行動しなければその意味は知り得ないという考えがある。
光政が、陽明学者の蕃山を重用したのは、儒学を庶民に普及させようとする蕃山の気概に共感したもので、光政自身も自らが率先する政治を志していくことになる。

光政の文教政策

光政は、学問が統治者だけのものでは、領民を含む家臣以下の者が従わないと考え、寛永18年(1641年)に岡山藩藩学の前身で、日本初の藩校である花畠教場を創設した。
また、寛文10年(1670年)には領民教育のための閑谷学校を創設している。
これらの全国に先駆けた藩校の創設は、光政の「知行合一」の理念が最も反映されたものである。

承応の大洪水

承応3年(1654年)に岡山藩の領地は未曾有の大洪水に見舞われ、それに続く飢饉も発生した。
島原の乱や寛永の大飢饉を目の当たりにした光政は、悪政が一揆を生むという教訓をすでに得ている。
光政は領民の救済を優先させ、城の米と銀を開放し、大坂の蔵屋敷にある米を取り戻した。
かつて、災害は人民の不徳とするものから招くという考えから、統治者である光政は自身の問題であると受けとめ、目安箱を設置した。
それを「諌箱」と呼んだが、家臣や領民からの視点で「諌め」ととらえ、反省を欠かさなかったのはいかにも光政らしく、その全てに目を通したという。
「諌箱」は、家臣用と領民用と置かれ、光政治世で何度も威力を発揮している。
光政は、洪水対策として旭川の放水路である百間川を開削し、江戸時代通じて岡山城下を守った。

断行された宗教政策

光政の手腕は、宗教政策でも発揮された。
幕府は寛文期に、日蓮宗不受不施派の禁教政策を行ったが、光政もそれにならい不受不施派の摘発を行っている。
政治的権威を認めない不受不施派は、古来より政権と対立しているが、島原の乱を経験した光政にとって、こういった徒党を組む集団は、統治そのものの否定であり、決して許されるものではなかった。
岡山藩は不受不施派が多いこともあり、結果的に大規模な寺院淘汰となってしまった。
また、由緒の定かではない神社や祠を廃し、由緒の定かな神社を残す寄宮を行った。
特異な政策としては、檀家がキリスト教徒や不受不施派でないことを寺院が証明した寺請制度を廃止し、その代わりを神社が担う神職請制度を導入したが、これは幕府から圧力を受ける結果になった。

土木建築の天才・津田永忠

津田永忠(つだ-ながただ)は、岡山藩の土木事業を担い、光政の補佐役として尽力した。
光政は永忠を評価し、跡を継いだ池田綱政の治世では、ますます重用され藩の基盤整備に大きく貢献している。
永忠は、百間川の開削や閑谷学校の建設など、生活の基盤づくりだけでなく、綱政治世では岡山後楽園の造営にも大きく関わり、光政の理念を見事に形にしていった。

光政の目指した治世

この時代において、これほど統治者として自立していた藩主も珍しい。
人心を安定させれば藩が治まり、藩が治まることが幕府のためになると考え、だからこそ藩政のなかで、領民教育を重視した。
光政は、鳥取藩主時代に儒学をよりどころとして選んだことは前述したが、蕃山は光政に、人の道の根本は「孝」であると説き、当然統治者であっても例外ではないとした。
「孝」とは儒教において、親や兄弟に対する崇敬を意味する概念である。
日常的に子が親を思いやることを原点にして、それが地域に波及し、やがて国家も円満になっていく。
光政にとって、それを体現させるのが学問であったのだ。
光政は、寛文12年(1672年)に64歳で家督を嫡男の綱政に譲り隠居した。
常に仁政を目指した光政であったが、自他に厳格な性格は、さまざまな軋轢の火種にもなった。
学問嫌いの綱政との関係は必ずしも良好ではなかったといわれ、晩年に行った改革の多くは、綱政に覆されたが、孫の池田継政によって光政の仁政は引き継がれた。
光政は様々な憂いのなかで、この世を去っていくが、光政の貫いた仁政は現代にも多くの足跡を残してくれているはずである。
池田光政、天和2年(1682年)5月22日、岡山城で死去、享年74歳。

(寄稿)浅原

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