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木曽義昌/木曾義昌(きそ-よしまさ)は、木曾谷領主(木曽福島城主)・木曾義康の嫡男として1540年に生まれた。

武田信玄の信濃侵攻に対しては、小笠原長時村上義清らと共に対抗したが、父・木曾義康は1555年に武田家に降伏した。

木曽家は、木曽義仲で有名な名門であり、武田信玄は3娘・真理姫(6歳?)(真竜院)を木曽義昌の正室に出し、木曽家を一門衆(親族衆)としている。
真理姫は武田信玄の娘であるが、母がどの母であったかは、わかっていない。

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真理姫(まりひめ)の輿入れに際には、千村備前守と山村新左衛門が木曽家に派遣され、真理姫の側近として仕えている事から、木曽義昌の行動も監視したものと推測される。
なお、木曽義昌と真理姫の間には木曽義利らが生まれているが、父・木曾義康も人質として妻と娘を甲府に出していたようだ。

1560年には、父・木曽義康と木曽義昌は、飛騨・姉小路良頼の木曽谷侵攻を食い止めている。
また、父・木曾義康は遠山家を武田家に従属させたが、織田信長が美濃を手に入れると、遠山家は織田家に従ったため、木曽家と遠山家は以後争った。

1564、武田信玄が飛騨の江馬時盛を救援すめため出兵すると、木曽家の宿臣・山村氏が派遣されている。

武田信玄が死去したあとも、武田勝頼に引き続き臣従したが、1575年、長篠の戦いにて武田勢が大敗すると、木曽谷は最前線となり、織田家に従う遠山家と度々戦闘になった。

なお、父・木曽義康は1579年に死去。

武田勝頼が新城として新府城を築城開始した際には、賦役や重税に木曽義昌は不満を募らせたいったとされている。

1582年、織田家に従う遠山友忠の調略を受けて織田信長と盟約を結ぶと、武田勝頼に対し反旗を翻し、織田勢の甲州征伐を導いた。

謀反の知らせを受けた武田勝頼は、木曽義昌の寝返りを信じず、木曽家に確認の使者を送ったが追い返されている。

真理姫は、自らの意思で木曽義昌と離別すると、木曽の山中に3男・木曽義一と共に隠れて暮らしたと言われている。

なお、激高した武田勝頼は人質である木曽義昌の母(70歳)、嫡男・木曽千太郎(13歳)、妹又は長女・岩姫(17歳)が、新府城にて処刑した。
更に武田勝頼は、木曽谷を攻撃するため、武田信豊を大将に大軍を奈良田から鳥居峠へと送った。
これに対して、木曽義昌は織田信忠の援軍も得て、鳥居峠の戦いとなると、地の利を生かした戦術にて武田勢を2度撃退することに成功。

これらの戦功により、武田家が滅亡すると、織田信長より安曇・筑摩の2郡(10万石)を加増され、深志城(松本城)には家臣を城代に置いている。

明智光秀による本能寺の変となると、北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙い、長野を手に入れようとした。
しかし、森長可によって、木曽福島城の城門を破城槌で突破され、子の岩松丸(木曾義利)が人質となってしまい、やむなく森長可の退却を助ける事になった。
そのため、深志城(松本城)は、上杉景勝の支援を受けた、小笠原長時の弟・小笠原洞雪斎によって奪われている。

徳川家康北条氏直が争った天正壬午の乱となると、木曽義昌は最初は北条氏直に従ったが徳川家康に通じると、真田昌幸らも徳川家に味方している。

徳川家康が小笠原長時の子・小笠原貞慶の深志城復帰を認めると、1584年、小牧長久手の戦いでは木曽義昌は徳川家から豊臣秀吉へ寝返り、次子・木曽義春を豊臣家に人質として送った。
そのため、徳川家康は妻籠城を攻めたが、木曽義昌は撃退している。

1585年、豊臣秀吉は、木曽家、真田家、小笠原家に対して徳川家の与力になるよう命じた。

1590年、小田原攻めのあと徳川家康が関東移封になると、豊臣秀吉は木曽義昌に対して徳川家り領地に移るよう命を出し、木曽義昌は先祖伝来の地である木曽福島城を奪われただけでなく、石高も削減され、下総阿知戸(千葉県旭市網戸)1万石となっている。
そのため、多くの譜代家臣も流浪の身となっている。

これは、小田原征伐の際に木曽義昌はは病気と称して、嫡子・木曽義利を派遣したためともされているが、木曽谷は豊臣家の直轄領となっているため、木材確保にと豊富な森林を豊臣秀吉は手に入れたかったと推測される。

木曽義昌は、貧しかった阿知戸の城下町や道路の整備、湿地帯の灌漑工事、田畑の開拓事業を推進し名君ともうたわれたが、1595年3月17日に死去した。享年56。
墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺。


家督は木曽義利が継いだが、叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いによって1600年頃に改易され浪人した。(流罪、追放とも?)
関ヶ原の戦いの際には、木曽家遺臣の山村良勝、千村良重が、小山の陣にて徳川家康に召し抱えられ、西軍の石川光吉が抑えていた木曽路を攻撃している。

なお、木曽義利が改易されたあと、真理姫は旧家臣らにより木曽・黒沢にて保護されたようで、1647年に死去している。享年98。

木曽義昌の次男とされる木曽義成は豊臣秀吉の小姓となっていたようで、大坂の陣の際に大坂城に入ったが徳川家との戦いで討死している。

千葉県旭市の名称である「旭」は、木曽義昌の先祖である源義仲が「旭将軍」と呼ばれたことが由縁となっている事からも、善政を敷いていたことが伺える。

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