武田信豊とは 甲斐武田氏の武田副将

武田信豊(たけだのぶとよ)は、甲斐の武田一族で、庶流の吉田家を継いだ武田信玄の弟・武田信繁の子として、1549年に生まれた。通称は父と同じ武田典厩(後典厩)。
母は、養周院日藤尼(出自不肖)で、兄に武田義勝(望月信頼)がおり、弟に望月信永がいる。
1561年9月10日、上杉謙信との第4次川中島の戦いにて、父・武田信繁が討死。また、兄・望月信頼(武田義勝)も、その直後である1561年9月21日に死去。(享年18)
兄も川中島の戦いに出陣していたため、戦傷がもとで死亡したとも考えら、弟(3男)の望月信永が望月家の養子に入って継いだ。


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一方、武田信豊は元服を果たしたあとの1567年、武田義信事件が発生した際に、忠誠を誓う生島足島神社への起請文に、その名が初めて見られる。
正室は小幡氏の娘。

1571年になると、武田勝頼が武田本家の世子と定められ、武田信豊は穴山信君と共に武田勝頼を支えたものと推測される。
1572年の西上作戦では信濃・高遠城の留守居役を務めており、黒揃えの軍装で守備したと伝わる。
なお、武田信豊の所領に関しては、史料が見当たらない。(小諸城は下曽根氏が城主であったため、まちに逃れた小諸城主でもない)

武田勝頼の代となると、1575年には三河黒瀬(愛知県新城市作手黒瀬)にて、奥平貞能・貞昌父子の動向を監視・調査。
長篠の戦いでは左翼4番手として出陣。
山県昌景、馬場信房、真田信綱らが討死し武田勢が劣勢になると、穴山信君同様に武田信豊も早々に退却したため、武田勝頼や高坂昌信が大変怒っている。

のち、高坂昌信が提出した意見書5箇条には、典厩(武田信豊)と穴山信君の切腹をさせるよう願い出ている。

その後、将軍・足利義昭の仲介による相模・越後との同盟においては交渉役となった。

上杉謙信の死後の御館の乱では、当初、上杉景虎支援を目的に信越国境に赴いたが、上杉景勝との交渉を進め、甲越同盟では取次役を務めた。


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なお、甲陽軍鑑によると、1581年、穴山信君の嫡男・穴山勝千代と婚約していた、武田勝頼の次女・檮姫が、武田信豊の嫡男・武田法輝との婚約に変更された。

1582年2月、織田信長による武田攻めが開始され、3月、木曾義昌が織田家に内応して反旗を翻すと、武田勝頼は武田信豊を大将に討伐軍を木曾へ派遣した。
しかし、織田信忠の援軍を得た木曾義昌に、鳥居峠の戦いで敗北。
武田信豊は家臣20騎程と共に、真田昌幸に合流して、小諸城へ逃亡し武田家再興を図った。

しかし、1582年3月12日、小諸城主・下曾根浄喜(下曽根信恒とも?)に裏切られて、二の丸に火を掛けられた。
家臣の朝比奈与四郎らが奮するも、武田信豊は長男・武田法輝(武田次郎)や生母と共に切腹して果て、武田信豊の姪の婿・百井某ら10名の家臣も切腹した。
なお、下曾根浄喜は首を信濃・飯田城にいた織田信忠の陣に進上するも騙まし討ちにした不忠者として追放処分されている。

武田信豊の首は、武田勝頼、武田信勝仁科盛信の首級とともに長谷川宗仁によって京都に輸送されて、三条河原にて晒されたあと妙心寺に埋葬された。


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長野県阿智村にある頭権現(大平神社)の御神体は頭蓋骨で、武田信豊のものだとする説がある。

また、四国の土佐には、婚約していた檮姫と武田法輝は土佐に逃れて、横畠の里にて暮らしたともある。

武田信繁~ある意味では兄の武田信玄より人気を博した名将にして忠義の武将
信濃・飯田城 伊那地方の拠点となった城跡
下曽根信照・下曽根信正・下曽根信由と下曽根氏の墓がある信照寺

コメント

  • コメント ( 1 )

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  1. 豆腐

    武田信豊が逃亡したのは、一次資料にはない記述で、新田次郎氏の小説の「武田勝頼」の創作ですよ
    「信長公記」によればしっかり織田軍を攻撃しています