穂井田元清とは~桜尾城と洞雲寺の陶晴賢の首塚も


スポンサーリンク
スポンサーリンク

穂井田元清(ほいだ-もときよ)は、吉田郡山城主・毛利元就の4男として1551年に生まれました。
初名は毛利元清となります。
母は正室・乃美大方とされますが、毛利隆元、吉川元春小早川隆景の3人の兄が大切に育てられているのに対して、毛利元清や他の側室の子は違っています。
そのため、毛利元清も継室や側室の子であるとの説もあります。

さて、毛利元清(穂井田元清)がのちに城主を務める桜尾城を先にご紹介させて頂きます。

 スポンサーリンク


桜尾城(さくらおじょう)は、厳島の対岸にある、三方が瀬戸内海に面した複郭式海城(平山城)で、標高は15m、比高は10mです。

最初の築城は、1221年の承久の乱のあと、中原親能の一族・藤原親実が新たな厳島神社の神主となり安芸国守護も兼ね、その代官屋敷として桜尾城を築いたと考えられます。
なお、藤原親実は中央での政治が忙しく、代官を派遣しています。

室町時代になると、武田信賢が厳島神主家の社領へ侵攻し、1441年、桜尾城を包囲しますが、撃退されています。

その後、大内家の支配下となり、厳島神主家の一族である友田興藤が桜尾城主となり居城としました。

友田興藤が1541年に尼子家に内応すると、大内義隆は門山城から桜尾城を攻撃します。
これにより、羽仁、野坂、熊野らと言う友田家の家臣が逃亡し、友田興藤は城内にて自刃したため、300年続いた厳島神主家は滅亡しました。

そのあとは、大内家臣の杉隆真が、佐伯氏の名跡を継いで佐伯景教と改名し、桜尾城主となりました。
大寧寺の変のあとには、陶家臣・江良賢宣などが桜尾城代を務めているようです。

毛利元就が侵攻すると、1554年5月12日に桜尾城は開城降伏し、桂元澄が桜尾城主を任され、水軍城として改修などを行ったようです。

1555年、厳島の戦いでのは毛利勢がここ桜尾城から出撃しました。
戦いのあと、陶晴賢の首実検も桜尾城にて行われています。

1566年、毛利輝元の前で元服した毛利元清は、1568年に村上水軍能島城主・村上武吉の養女(来島城主・村上通康の娘)を正室に迎えます。
この来島・村上通康の娘(村上武吉の養女)は、小説「村上水軍の娘」では琴姫となります。

毛利元清は三村元親らと立花山城の戦い、門司城の戦い、多々良浜の戦いなどで活躍し、桂元澄の死後となる1572年に安芸・桜尾城を与えられました。

1574年、宇喜多直家と手を結び離反した備中松山城主・三村元親を、吉川元春と小早川隆景と共に、1575年、攻め滅ぼすと毛利元清は猿掛城など5000貫に加増されます。
この時、桜尾城は正室・御北尾と9弟・才菊丸(小早川秀包)に託したようです。

猿掛城に入った毛利元清は地元・穂田郷の穂田(穂井田)を称するようになり、穂井田元清として広く認知されるに至りました。(諸説あり)

1576年には、麦飯山の戦いにおいて宇喜多基家の軍勢と戦い、1577年には、織田信長に通じた宇喜多直家を撃退しています。

1578年、上月城の戦いでは、7弟・天野元政と共に先頭に立って上月城を落城させたと言いますので、穂井田元清は決して平凡な武将では無かったようです。

1579年11月7日、穂井田元清の長男・毛利秀元が猿掛城にて生まれました。
母は正室の村上通康の娘(妙寿院)とされています。

1582年、備中高松城の戦いの際に、毛利家は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と和睦したあとは、毛利家自体が豊臣家に臣従する形となったため、穂井田元清も毛利の軍勢と共に豊臣家の為に戦っています。

1586年、豊臣秀吉が九州攻めを開始すると、1587年には、九州へ向かう途中の豊臣秀吉が桜尾城に立ち寄り、厳島神社にも参詣しました。

1589年からは、広島城の築城に穂井田元清と二宮就辰が抜擢され、普請奉行として指揮しています。
それらの功績から1591年、穂井田元清は12000石となり、安国寺恵瓊と共に毛利輝元を支える年寄筆頭となっています。

1592年からの朝鮮出兵では、病床の毛利輝元に代わって、毛利勢の総大将を穂井田元清が務めました。
この時、豊臣秀吉の希望で、朝鮮にて「虎」を2頭生け捕りにして日本に送ると、京では見物客が多く、後陽成天皇も見に訪れています。

1597年7月9日、穂井田元清は桜尾城にて47歳で死去しました。

1600年、関ヶ原の戦いでは長男・毛利秀元も出陣しましたが、安芸・広島城に福島正則が入ると桜尾城は廃城となった模様です。
福島正則は、より強固な亀居城を大竹に新築しています。

現在の桜尾城は「桂公園」となっていますが、これは毛利家とも所縁ある総理大臣・桂太郎が、先祖の地に寄付をして整備されたためと言う事です。
この整備により、桜尾城跡の標高30m本丸が削られて周辺の埋め立てに使わるなど、大きく土地も改変されたため、海も遠のいて、桜尾城の遺構は完全に無くなっています。

かつての本丸は削られて広いグランドと公園になっています。

桜尾城跡

公園入口に「石碑」と案内板があるだけでして、厳島の戦いの舞台のひとつでも桜尾城のこのような姿は残念に感じました。

桜尾城

桜尾城への行き方・アクセスですが、広島電鉄・宮島線「広電廿日市駅」からは約600mです。
桂公園の無料駐車場が丘陵の上にあります。
下記の地図ポイント地点はその石碑がある公園入口です。
入口道路の右側に石碑があります。

近くの洞雲寺には桜尾城に所縁ある、桂元澄の墓、穗田元清の墓、友田興藤の墓、陶晴賢の首塚などがあります。

洞雲寺

廿日市・洞雲寺(とううんじ)は、厳島神社の厳島神主職で桜尾城主だった藤原教親が、1487年に周防・龍文寺から金岡用兼(きんこうようけん)を招へいして、菩提寺として開山したものです。

洞雲寺

寺宝も数多い本堂の脇には、金岡禅師が厳島明神の啓示によって得たとされる「金岡水」が湧いているとの事です。

洞雲寺の境内マップ

下記は穂井田元清の墓(毛利元清の墓)です。
洞雲寺・本堂の右手脇から山へと上がった墓地にあります。

穂井田元清の墓

その脇に、ほぼ同じ形をした穂井田元清・正室の墓があります。
村上武吉の養女(村上通康の娘)の墓と言う事になると考えて良いでしょう。

村上武吉の養女(村上通康の娘)の墓

毛利元就の家臣・桂元澄の墓(正室の墓も)=桂元澄夫妻の墓は下記で、穂井田元清の墓と同じ区画にあります。

桂元澄夫妻の墓

桜尾城主・藤原家一族の墓をはじめ、大内氏に滅ぼされた藤原興藤の墓、厳島の戦いで毛利元就に破れた陶晴賢の首塚などは、洞雲寺・本堂から左手と別の墓地に位置します。
山門の左方向にある「東司」と言う建物脇から墓地に階段を上がります。
その途中に陶晴賢の首塚があります。
陶晴賢の墓ではないとする説を唱えている方もおられるようですが、私には確かめるすべはありません。

陶晴賢の首塚

下記は1541年に大内氏に攻められた桜尾城主・友田興藤の墓です。

友田興藤の墓

洞雲寺の拝観時間は朝9時~17時で、見学所要時間は15分~20分といったところ。
下記の地図ポイント地点は、参詣用の無料駐車場(50台)の場所となります。

お車の場合、付近の道路はわかりにくいので、カーナビで目的地設定してから訪れた方が無難です。
なお、洞雲寺の墓所は蚊の対策(虫除け)が必要です。

【毛利元就】5分でわかる苦労した生い立ちと稀代の智略
村上景と琴姫とは~村上海賊の娘「主人公のモデルとなった女性は?」
上月景貞~最後は上月城主として羽柴勢に挑んだ
児玉就英とは~毛利水軍を率いた草津城主(草津城と児玉就方の墓)
小早川隆景【詳細版】~毛利家大きく支えた智将
吉川元春~毛利家の中国制覇に大きく貢献した名将
後陽成天皇~乱世を生き抜く処世術で皇室を生き残らせる
毛利輝元とは【かろうじて毛利家をつないだ戦国大名】

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(…
  2. 寿桂尼(じゅけいに)は、藤原北家である勧修寺流の中御門家(公家)・権大納言中御門宣胤の娘で、兄に中御…
  3.  阿南姫(おなみひめ)は、米沢城主・伊達晴宗の長女として1541年に生まれた。兄に岩城親隆、弟に伊達…

人気の戦国武将

  1. 今治城(いまばりじょう)は、輪郭式平城で、別名は吹揚城、吹上城(ふきあげ)とも言います。海を活用…
  2. 5歳の時に疱瘡に掛かり、一命は取り留めるものの右目を失った梵天丸。米沢にて虎哉和尚や片倉景綱に鍛…
  3. 淀城には「淀古城」と「淀城」の2つがありますが、その理由と歴史について調べてみました。(さらに…
 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る