厳島の戦い~戦国時代の三大奇襲戦と宮島の宮尾城と勝山城


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宮尾城(みやおじょう)は、厳島神社で有名な宮島にある平山城で、別名は宮ノ尾城、宮尾ノ城、宮ノ城とも呼びます。
毛利元就が大勝利をおさめた「厳島の戦い」にて、毛利勢が入った最前線の城が宮尾城でした。

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宮尾城を訪問するべく、宮島口からJR西日本のフェリーで宮島へと渡ります。

厳島神社の大鳥居

宮島フェリーターミナルを出て、厳島神社へと向かう大半の観光客とは異なる行動を取ると、宮尾城へたどり着けますが、船を降りて5分くらいの距離で近いです。

宮尾城の全景

下記の階段を登って行きます。

宮尾城への入口

階段には「鹿」さんのフンがたくさん転がっており、靴の底にハマったらどうしよう?と思いながら登って行きました。

宮尾城

階段を登りつめた山頂は標高27mの「要害山」と言う名称になっていますが、ここが宮尾城の本丸跡となります。

要害山(宮尾城)

下記は宮尾城(要害山)からの展望ですが五重塔があるところが、この後の話でも出て参ります「塔の岡」です。
各写真はクリックすると拡大致します。

宮尾城(要害山)からの展望

地図で示しておきますと、宮尾城(要害山)は、下記の地図ポイント地点となります。
マップは縮尺を変えてご覧ください。

その山頂からちょっと東に進んだ二の丸には今伊勢神社が祀られています。

今伊勢神社

更に東へと向かいますと、西曲輪群との堀切(切通し?)がありました。

宮尾城(要害山)の切通し

急峻な地形ですが、遺構としては帯曲輪程度しか残されていません。

宮尾城跡

最初の築城年などは不明ですが、1554年5月、宮島を占領した毛利元就は、宮尾城を改修して城兵を配置しました。

宮尾城

そして、6月に奪還するべく陶晴賢勢の水軍が押し寄せましたが上陸を阻止しています。

宮尾城

厳島の戦い

1555年10月01日には、ついに「厳島合戦」となります。

宮尾城には毛利家に寝返った己斐直之・坪井元政ら約500が守備していました。
毛利輝元は、その宮尾城に裏切り者が出たとニセ情報を流したともされ、陶晴賢は岩国付近に集めていた500隻もの軍船を、9月21日には厳島へ向かわせて大元浦から上陸し勝山城(厳島城)に入りました。
下記が勝山城(厳島城)跡となりますが、詳しい場所はのちほどに掲載しておきたいと存じます。

勝山城(厳島城)

陶晴賢の軍勢はその数、2万とも3万とも言われる大軍です。
その後、宮尾城を包囲するため、厳島神社近くの塔の岡(豊国神社付近)に本陣を移しました。
下記がその「塔の岡」です。

塔の岡

毛利元就は草津城(広島市西区)に毛利勢を集めましたが、兵数が少なかったため、村上水軍村上武吉や村上通康らに「1日で良いから加勢して欲しい」と助けを求めたとされます。

また、熊谷信直が4人の子・熊谷高直、熊谷直清、熊谷広真、三須隆経らと落城寸前の宮尾城へ入り防戦を続けますが、いつ陥落してもおかしくない状況となります。

そのため、毛利元就は村上水軍の到着を諦めて、厳島へ渡ろうとした時に、約300隻の村上水軍が到着し、9月30日夜、暴風雨の中、夜陰に紛れて厳島へ渡り博打尾へと布陣しました。

陶晴賢らの大軍は、兵力で勝っており、宮尾城もあと少しで陥落と言う状況の中、前日の夜が暴風雨でもあり、完全に油断していたようです。

翌10月1日早朝、毛利隆元、吉川元春小早川隆景ら5000の毛利勢が反撃に転じて急襲を掛けます。
隙を突かれた陶軍は、狭い宮島の中で一時退却して立て直そうにも、後方には大軍が控えていて進退が極まり、陶晴賢らの大軍は大混乱となります。

宮島の街並み

宮尾城からも撃って出て挟み撃ちすると、陶軍は総崩れとなり、宮島から脱出する舟も奪い合いとなって、沈没したり溺死する者が続出。
陶晴賢も脱出を図りますが、海上では村上水軍が待ち構えており、また残された舟も無く、浜沿いに大元浦へ敗走しました。
そこで、陶晴賢は伊香賀隆正の介錯にて自刃。享年35。

最期まで付き添った伊香賀隆正、柿並隆正、山崎隆方らも刺し違えて自刃しました。

陶晴賢の本陣では三浦房清ら約30名が最後まで奮戦しましたが壊滅し、弘中隆兼・弘中隆助は大聖院を経由して弥山の谷を駆け登った後、隣の絵馬ヶ岳(駒ケ林)にて10月3日まで抵抗しました。
しかし、最後には討死し全滅しています。

そして、10月5日に、毛利元就は桜尾城にて、陶晴賢の首実検を行ないました。
この首実検では、主君を討った逆臣であるとして、毛利元就は陶晴賢の首を鞭で3度叩いたと伝わります。

一説では陶勢の死者は4700人ともされる壮絶な合戦であり、毛利勢は血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、血が染み込んだ土も削り取ったと言われています。
これは、もともと厳島は島全体が厳島神社の神域で、島に住む女性は月経の際に島外避難するほど、血に関しては厳しい宮島だったのです。

このように毛利勢は大勝し、その後、大内氏は急速に弱体化して行ったのでした。

厳島

なお、来島・村上水軍が毛利元就に味方したのは、下記のような話もあります。
来島・村上通康の妻(側室?)が小早川隆景の養女であり、厳島の戦いの前年1554年に嫁いだとされます。
この女性は毛利元就の長女・五龍局が産んだ娘・天遊永寿(てんゆうえいじゅ)と言います。
ただし、村上通康の正室としては河野通直の娘がすでにいた為、天遊永寿は河野家の本拠地・湯築城にあった村上通康の屋敷に住んだとされます。

小早川隆景や毛利元就は、来るべき陶晴賢との決戦に備えて、来島・村上家を味方につけようと画策していたとも考えられ、また、この天遊永寿が本来は河野家に臣従しており、毛利家に味方する由縁もない来島城主・村上通康を説得したのではとも考えられています。。
天遊永寿は、来島通康が死去したあと、恐らく毛利家の意向により、湯築城主・河野通宣に再婚したと推定できます。

しかし、4700ともされる陶軍の戦死者を出した厳島合戦ですが、毛利勢が大勝した話は、後世に「誇張」された可能性もあり、史実と異なる部分が多いとも推測できます。
厳島の戦いにて毛利元就が、功績のあった家臣への感状が、まだ1通も発見されていないと言う事実からも、色々と疑問点が残ります。

勝山城(厳島城)

宮島には、厳島の戦いにて陶晴賢が最初に本陣を置いた勝山城跡も近いですので、合わせて寄りました。
勝山城(厳島城)がある場所ですが、ちょっと分かりにくいので、解説しておきます。
厳島神社の宝物館がありますが、その西にある「山城屋」さんの脇にある「階段」を登って行きます。

勝山城(厳島城)

ずっと登って行くと「多宝塔」がある場所にでます。
多宝塔は1523年に建立したといわれる国の重要文化財です。

宮島の多宝塔

その多宝塔から山側に、なんやら人が登って行った跡が見えるのですが、その上の部分が勝山城(厳島城)となります。

勝山城(厳島城)

しかし、立入禁止になっていたので進入は遠慮致しました。
なお、上記写真の手前右手にちょっと行きますと下記の石碑があります。

勝山城(厳島城)

この辺りにはもともと大内氏の勝山館と呼ばれる屋敷があり、厳島神社参詣の際に使用されていたとの事です。
石碑がある場所は下記の地図ポイント地点となります。

塔の岡

塔の岡は、豊臣秀吉が戦歿将兵の慰霊のために1587年に建築開始した千畳閣(豊国神社)がある場所となります。
安国寺恵瓊が建造を命じられていました。

豊国神社(宮島)

千畳閣(豊国神社)の建物(国重要文化財)には「壁」や「天井」の「板」が無いのですが、これは建造途中で豊臣秀吉が死去したため、工事がそこで終わってしまったとの事です。
隣には1407年建立の国の重要文化財「五重塔」が建っており、厳島神社同様に、大変多くの外国人に好まれている観光スポットです。

豊国神社の五重塔

その五重塔から東に延びる尾根沿いに「塔の岡茶屋」と言うお店がありますが、その店先付近に塔の岡の案内板が建っています。
塔の岡の案内板があるのは下記の地図ポイント地点です。

宮尾城跡は、厳島(宮島)の桟橋から歩いて3分くらいの距離です。
戦国武将好き・戦国時代好きの方は「宮尾城」→「塔の岡」→「厳島神社」→「勝山城」と言う順番にてセットで訪れたいところです。
ちなみに、宮島に観光所要時間は、宮島口からの往復時間で合計約2時間でした。

なお、大きな合戦がありますと、普通でしたら神社仏閣は「焼失」するものですが、厳島神社は厳島合戦の合戦場にあっても、燃える事はありませんでした。
戦に明け暮れた戦国時代にも大切に守られて来たため、世界文化遺産で日本三景でもある「厳島神社」が今日あるのは、陶晴賢や毛利元就の家臣や兵のお蔭とも言えるでしょう。

毛利元就のスゴイところはこちら
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