
上月城主・上月景貞(上月景高、上月定之、上月十郎景貞)の上月は「こおづき」と読む。
元々、上月家は、赤松氏の一族で、戦国時代には赤松政範に従っていた。
1577年11月、黒田官兵衛は(小寺官兵衛)が、家臣の生田木屋之介の活躍で、竹中半兵衛らと佐用城(城主・佐用三郎政茂)を落とすと、続けて赤松政範ら7000が守る上月城を攻めた。
羽柴秀吉勢も立原久綱らの加勢も受けて15000にて11月27日に上月城を包囲すると、赤松政範は同じく毛利勢に組していた宇喜多直家に救援を求め、弟の宇喜多忠家 長船久右衛門、岡剛介ら3000が救援に向かい、三石を通って上月に到着し11月30日に羽柴勢と対峙した。
羽柴勢の生駒親正が、上月城の水補給路を絶つと、1577年11月29日、赤松勢は城から討って出て、羽柴秀吉勢の先鋒・別所重棟に攻撃し、続けて黒田官兵衛勢にも襲いかけた。
羽柴秀吉は「小寺官兵衛を討たすな」と命じ、本陣の部隊を投入した為、赤松勢は退却。
羽柴勢は堀尾吉晴、宮田喜八郎にて宇喜多直家も撃退したが、宮田喜八郎は討死し、堀尾吉晴は深手の負傷をし、宇喜多勢では西国で名の知れた明石三郎右衛門と、まなこ甚左衛門らが討死と言う乱戦となった。
このようにもともと、上月城の城主は赤松政範だったが、敗戦濃厚となり、12月2日に最後の宴を開いて、妻や一族郎党と共に自害したようで、家臣の高島右馬介正澄、早瀬帯刀正義、宇喜多掃部介広維、国府寺入道、中村伊勢入道らも殉じた。
残された上月城兵は羽柴秀吉に降伏を申し出たが、羽柴秀吉は降服を許さず、上月城の城門を外から閉じて城兵を閉じ込め、12月3日に上月城を総攻撃して城兵を皆殺しにした。
上月城の女・子供、約200名は捕えられ、毛利家との国境にて、女は磔にして殺害し、子供は槍でついて処刑されたと言う。
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残る利神城も降伏を願い出てきたため、羽柴秀吉は人質を取って、上月城に兵500を配置して、尼子家再興を願って参戦していた山中鹿之助らに上月城を与え、尼子家再興を許可した。
山中鹿之助は僅かな兵を城に残し、京都で待機していた、尼子勝久を迎え向かったが、その隙をついて宇喜多直家が家臣の真壁彦九郎治次500に命じて上月城を奪還。
その後、尼子勝久を奉じて山中鹿之助が2000で戻って来ると、上月城を守備していた真壁彦九郎治次は戦わずに岡山に撤退した為、尼子軍は上月城に入る事が出来たが、城や領地は荒廃しており、物資も乏しかった為、羽柴秀吉に相談して姫路城に一旦退却した。
※すぐさま宇喜多直家が真壁彦九郎治次の弟・真壁次郎四郎治時に3000の兵を与えて、1578年1月末に奪還を試みたが、山中鹿之助の策による夜討ちにあい安達治兵衛・安達慶松の兄弟が真壁次郎四郎治時を討ち取った。それに激怒した宇喜多直家は、家中主力の長船紀伊守・岡越前守ら5000で攻撃したので、猛攻に耐えられなかった山中鹿之助らは羽柴秀吉の許可を得て、退却したとする説もある。
いずれにせよ、宇喜多直家は、1578年2月に上月景貞を城主として上月城に入れて、矢島五郎七を補佐につけ、2000で守らせたが、3月には再び羽柴勢が20000の大軍を率いて包囲。
籠城継続が難しくなった上月城では、1578年3月下旬、江原兵庫助らが謀反を起こした為、城主・上月景貞は負傷しつつも城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の羽柴秀吉の本陣攻撃を図ったが叶わず、千種川沿いの櫛田(兵庫県佐用町櫛田)の山中にて自刃または討死した。
別の説では、江原兵庫助らが討ち取った城主・上月景貞の首を羽柴秀吉に差し出して降伏を願い出たとも。
志方城主・櫛橋伊定の長女(黒田官兵衛の妻・光姫の姉)は、上月景貞の正室だった為、黒田官兵衛の陣を頼って、夫人は出家して妙寿尼と称した。
2人の子のうち、姉はのちに小早川秀秋の家老・平岡石見守に嫁ぎ、弟は元服すると上月次郎兵衛正好と名を改めたと言う。
上月町には「戦」という地名や「戦橋」「張付谷」「地獄谷」という地名が今でも残っている。
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