宇都宮広綱 何度も下克上を受けた不遇な武将

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宇都宮広綱

栃木県宇都宮市にある宇都宮城址公園。
その宇都宮城にゆかりある一族宇都宮家は戦国時代中期から安土桃山時代にかけて前途多難な道筋を歩んできました

今回は戦国時代中期に宇都宮家の舵を握った宇都宮広綱(うつのみやひろつな)についてまとめてみました。

宇都宮広綱の生涯

宇都宮広綱は天文14年(1545)に産まれました。
当時、宇都宮氏がいた下野国は伊勢信仰が流行の最先端になっており、宇都宮氏も影響を受けたため広綱の幼名は伊勢寿丸でした。


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何不自由なく過ごしていた広綱が5歳を迎えるころ宇都宮氏に暗雲が立ち込めてきました。
それは父、宇都宮尚綱の死でした。
尚綱は天文18年(1549)の喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい)で那須高資(なすたかすけ)との戦い、討死にしてしまいます。

尚綱の跡はまだ幼い広綱が継ぐのですが、この混乱を契機に宇都宮氏の家臣であった壬生綱房(みぶつなふさ)が反旗を翻し、宇都宮城を乗っ取ってしまいます。
綱房は宇都宮氏の重臣を従えて独立し、下野国統一に動き出します。この下克上によって宇都宮氏は滅亡の危機に瀕してしまいます。

このような状況下でも広綱を支えたのは宇都宮氏の家臣である芳賀高定(はがたかさだ)でした。
高定は宇都宮氏の再興のためなら自分の手を汚すことも覚悟の上で天文20年(1551)に尚綱の仇である高資、弘治元年(1555)には那須氏の家臣、芳賀高照と次々に暗殺していき、勢力を拡大していきました。
また、弘治3年(1557)には北条氏康を味方につけ、宇都宮城を奪還します。
高定の功績によって広綱の元に宇都宮城が戻り、宇都宮氏は無事再興することができました。


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その後は高定の助けもあり、佐竹義昭の娘、南呂院(なんりょいん)を正室に迎え、佐竹氏と強固な同盟関係を結びました。
佐竹義昭が上杉謙信と同盟関係であることから広綱も謙信に接近し同盟を結びます。
そこから広綱は反北条勢力となり、北条氏と対立していきます。
広綱の主な活躍は永禄6年(1567)に行われた小田城の戦いで北条に味方していた小田氏治を義昭と共に敗走へ追い込んでいます。
また、同年に行われた5度目の唐沢山城の戦いで唐沢山城城主、佐野昌綱の説得交渉に臨み、降伏へ導き昌綱の助命嘆願も謙信に乞うていました。

しかし、病弱だった広綱は元亀3年(1572)に病に倒れてしまいます。
その時を待っていたかのように重臣である皆川俊宗が反旗を翻し、宇都宮城を乗っ取ってしまいます。
この時、広綱は幽閉されてしまうのですが、何とか脱出し義昭の子、佐竹義重に助けを求めます。
これに応じた義重は広綱と共に宇都宮城の奪還に成功し、再び宇都宮城は広綱の元に戻ってきます。

宇都宮城を取り戻し一安心したのか天正4年(1576)には再度病に倒れてしまいます。
今回は花押も押せなくなるほど悪化しており、広綱はそのまま帰らぬ人となりました。
32歳で亡くなった広綱はその死を周りに知らされないように死を伏せていたとされています。

広綱の外交力

広綱は外交面で成果を残していました。
それは「東方ノ衆」(とうほうのしゅう)という連合を形成したことです。
東方ノ衆は佐竹氏、那須氏、結城氏と宇都宮氏で結ばれていた反北条氏連合のことで北条氏康が命名したとされています。氏康からも人目置かれており、関東で重要視されていたことがわかります。


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広綱は結城氏に自身の子を養子に出すことや佐竹氏と同盟を結ぶなどして宇都宮氏の状況を知っているからこのような外交面で力を発揮したのかと思います。

(寄稿)拾丸

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