夏目吉信(夏目広次)の解説~徳川家康の命を救った忠臣

夏目吉信

夏目吉信(夏目広次)とは

若き頃の徳川家康を苦しめた戦「三方ヶ原の戦い」と夏目吉信・・・。
この戦いで家康は武田信玄に完膚なきまで攻められ、死を覚悟したほどと言われています。
それでも家康は家臣たちが命を懸けてまで逃がしてくれたおかげで、撤退することに成功しました。

しかし、多くの家臣を失ったので徳川軍は大打撃を受けていました。
その家臣の中には家康を守るために自身が家康と名乗りでて囮になる人物もいました。

今回はそのようなことをして家康を守った忠義の武将、夏目吉信(なつめ-よしのぶ)について触れたいと思います。

由緒ある家柄

夏目家は多田源氏の祖である源満仲の5男、源満快(みなもとの-みつやす)を祖とする平安時代から続く由緒正しい家柄です。
戦国期には古くから徳川家に仕え、譜代衆として支えていました。


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吉信も先祖同様に徳川家に仕えます。その時の当主だった家康を影から支え、その功績として備前長光作の脇差を貰う活躍をしていました。

一度は家康と対立する

しかし、永禄6年に三河国で一向一揆(三河一向一揆)が起こると一向宗の門徒だった吉信は家康側ではなく、一向宗側として家康と敵対関係になります。
そして、家康側の内通者によって守っていた野羽城が落城すると吉信は松平伊忠(まつだいら-これただ)に捕縛されます。伊忠は吉信の忠誠と武勇を惜しいと思い、家康に助命嘆願したことで吉信は徳川家に戻ることができました。

この一揆では敵から「犬のように忠実」と言われていた三河武士たちの半数が家康に武器を向けることになります。
中には家康を生涯を通して支える家臣、本多正信や後に徳川十六神将として数えられる者たちも一向宗側につきました。

この一揆によって苦い経験をした家康は宗教の恐ろしさを思い知ることとなりました。

忠臣としての役目

その後家康の家臣として過ごし、10年経った元亀3年(1573)に武田信玄が上洛すべく西進してきます。
これに対抗するべく家康は家臣の反対を押し切って武田軍と三方ヶ原で衝突しました(三方ヶ原の戦い)。
吉信は浜松城で戦の様子を見ていましたが、自軍が敗走一歩手前と知ると家康救援に向かい、撤退を進言します。


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しかし聞く耳を持っていなかったので、吉信は家康の馬の向きを強引に変更し家康を撤退させました。
残った吉信は家康を逃がすために少ない兵を引き連れて武田軍と奮戦します。
しかし、奮戦空しく55歳で命を散らすことになりました。
後年、吉信の子が不祥事を起こした際でも、吉信の忠義に免じて不問にしたことがあるくらい家康は感謝の意を示していました。

江戸時代になっても夏目家は存続し、徳川家に旗本として仕えます。
また明治時代を代表する文豪、夏目漱石は吉信の子孫であります。

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