源満仲 多田源氏の祖であり清和源氏を発展させた源氏武者

源満仲




清和天皇より始まった清和源氏には、河内源氏や摂津源氏など分家が多数ありました。今回は先ほど紹介した河内源氏や摂津源氏の祖となった源氏たちの親に当たると共に多田源氏の祖でもある源満仲(みなもとの–みつなか)について焦点をあててみたいと思います。

遅咲きの登場

満仲の名が史料上に登場するは天徳4年(960年)のことで、『扶桑略記(ふそうりゃくき)』に記されています。延期12年(912年)の生まれとされているので、48歳という遅咲きで歴史の表舞台に立つことになります。

この時京都では、平将門の子が入京したとの噂が回っていたので武官貴族である満仲と大蔵春実(おおくらの–はるざね)、検非違使と共に探索に当たりました。

この出来事は官職に限定されずに武士団を用いた最初の例とされ、将門が戦死して20年経った頃でも将門の名を聞くと過剰に反応してしまうくらい将門が強い影響力を持っていた証拠とも言えます。


結局噂で終わりましたが、応和元年(961)には満仲の邸宅が襲撃される事件が起こりました。この時満仲は邸宅を襲撃した犯人を捕まえます。その犯人を尋問すると主犯は別におり、醍醐天皇と清和天皇の皇孫が主犯格ということが判明しました。

天皇の側近として

その後康保2年(965年)には天皇の側近に当たる蔵人の一つ、鷹飼を村上天皇から任命されます。

2年後の康保4年(967年)に村上天皇が崩御すると、満仲は固関使(こげんし:天皇の崩御や譲位、摂関職の謀反などの非常事態の際に三関と呼ばれる3つの関所を封鎖する使者)に武官貴族で政敵でもある藤原千晴(ふじわらの–ちはる)と共に任命されますが、病気を理由に辞退をしました。

ちなみに千晴も辞退を申し出ましたが、却下されています。双方が嫌がるということは京都を離れると、出世の機会を逃す可能性があることを意味しているかと思います。

安和の変で政敵の排除

千晴を残し京都に残った満仲は、安和2年(969年)に藤原北家嫡流による他紙排斥事件、安和の変で千晴を徹底的に追い込みました。

満仲は橘繁延と源連(みなもとの–つらなる)の謀反の密告を右大臣藤原師尹(ふじわらの–もとただ)に報告し、関白藤原実頼が派遣した検非違使で2人を逮捕します。また検非違使を務めいた満仲の弟、源満季(みなもとの–みつすえ)はこの機に及んで千晴を逮捕します。

これにより、千晴の主だった左大臣源高明(みなもとの–たかあきら)は大宰府へ左遷されるとともに、千晴は隠岐国へ流罪となりました。

多田源氏の形成

満仲は安和の変で政敵を排除できたと共に密告の恩賞として正五位下の位を貰います。そして、藤原北家に仕えた満仲は摂津国や越後国といった5ヶ国の受領を歴任すると摂津国に土着、同国多田庄で武士団を作り上げます。多田庄は清和源氏最初の拠点であり、満仲を中心とした清和源氏たちを多田の字をあやかって多田源氏と呼ばれ、満仲も多田満仲とも呼ばれています。


武士団作成後は、寛和元年(986年)に起きた花山天皇出家事件の際に花山天皇を連れて元慶寺まで行った藤原兼家の警護に当たりました。この事件を機に兼家と満仲は主従関係を結びます。翌年には満仲の子で僧侶である源賢(げんけん)に仏法を説かれ、出家します。

そして長徳3年(997年)、清和源氏の発展に身をささげた満仲は87歳の天寿を全うしました。

寄稿(拾丸)

司箭院興仙 細川政元に仕えた修験者
江口正吉 丹羽家を支えた忠義の軍師
夏目吉信 徳川家康の命を救った忠臣
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投稿者プロフィール

幼い頃から歴史が好きで大学では歴史を本格的に学んでいました。
武将たちの隠れた素顔や生い立ちをわかりやすく伝え、それをきっかけに歴史を好きになってもらえたら嬉しいです。

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