内ヶ島氏理 土砂に埋もれた悲劇の武将 飛騨の一大勢力

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帰雲城

日本は地震大国です。今も地震によって大幅な被害を受けることがありますが、それは戦国時代も同じでした。
驚くことに地震によって滅亡した一族もいました。その一族は内ヶ島家です。
今回は内ヶ島家の最後の当主、内ヶ島氏理(うちがしま-うじまさ)についてご紹介します。

内ヶ島家について

氏理を紹介する前にまず内ヶ島家についてご紹介します。内ヶ島家は足利将軍家に仕えた一族で足利義政の代になると白川郷を本拠として活動します。

やがて、白川郷にいた照蓮寺の僧たちと対立し敵対することになり、これに勝利した内ヶ島家は本願寺蓮如を介し、照蓮寺を内ヶ島家の配下としました。

同時に本願寺と友好的な関係を築きます。しかし、戦国乱世の機運が高まってくると両家の関係は破綻してしまいました。

その後、内ヶ島家は白川郷の鉱山経営で財を成すことに成功し、帰雲城(きうんじょう)と多数の支城を有する戦国大名へと成長を果たしました。

侵攻と撃退

氏理が歴史の表舞台に立つのは天正4年(1576)の頃でその当時は上杉謙信に領地を狙われていました。

その後天正6年(1578)までの2年間、謙信と謙信に臣従を示した姉小路頼綱から侵攻されますが、その度に撃退をしていました。

その後は謙信の病没により、織田家が勢力を伸ばしてきます。そして、氏理のいる飛騨国(岐阜県北部)の上に位置する越中国(富山県)に一大勢力を築いた織田家家臣の佐々成政に恭順しました。

飛騨国では本願寺勢力の照蓮寺が勢力を維持しており、織田家も本願寺と対立していたので、利害の一致という形になります。

佐々成政の配下へ

その後は成政に従い、天正10年(1582)に起きた魚津城の戦いで魚津城を陥落させる活躍を見せています。

同年に織田信長本能寺で倒れた後も成政と共にあり、天正13年(1585)に豊臣秀吉によって行われた富山の役で氏理は援軍として越中国に赴いています。

越中国に来たものの、肝心の成政が戦わずにして、秀吉に降伏してしまいました。そして、氏理が留守にした飛騨国には秀吉の配下、金森長近が侵攻を行います(飛騨侵攻)。

長近の侵攻に対抗したのは以前敵対していた頼綱でした。しかし攻勢空しく頼綱が敗北したことにより、姉小路家の滅亡と帰雲城の占拠という結果が踵を返して飛騨国に向かっていた氏理に突きつけられました。

天災による悲劇

帰雲城を占拠された氏理は長近を通じて秀吉に降伏します。降伏したことにより飛騨国を新たに治める長近の配下となります。

また、秀吉が内ヶ島家の鉱山経営を重要視していたので家名と所領は安堵されることになりました。

秀吉との和睦が成立し、同年11月29日に宴が帰雲城にて行われました。そんな祝いの場に関わらず、マグニチュード8の天正地震が襲い掛かります。

この地震によって内ヶ島家は氏理本人を含む一族郎党が帰雲城の山崩れによって滅亡してしまいました。

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