金森長近の解説「気相の人」天下人からの信望厚く戦国乱世を駆け抜けた名脇役

金森長近




金森長近とは

金森長近(かなもり-ながちか)は、戦国時代の大永4年(1524年)に大畑定近の次男として美濃国に生まれた、戦国武将・大名で織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた人物である。
織田信長より10歳ほど年上で、織田軍団の草創期も知り、関ヶ原の戦いも最年長ながら戦い抜いた。

飛騨・高山城

各地で武功を挙げている長近だが、様々な逸話からは武功一辺倒ではないことがよくわかる。
武将としてだけでなく、一人の人間としての個性も見ていきたい。

長近は土岐氏の一族

金森長近の曾祖父は、応仁の乱で西軍に属した土岐成頼であるとされる。
父・定近は、土岐氏の後継者争いにおいて、土岐頼武を支持した。
土岐頼武は後継者争いに敗れ失脚するが、このため定近も美濃を離れ近江国金森村へ移住し、このとき金森姓を称したという。


金森長近は、18歳の頃に近江を離れ織田信秀に仕官し、信秀が死去するとそのまま嫡男・信長に仕え、尾張統一の戦いに始まり、桶狭間の戦いや、美濃攻略に従って功績をあげ、信長直属の使番である赤母衣衆(あかほろしゅう)に抜擢された。

戦いに次ぐ戦い

長近の個性のひとつに、野心がないゆえに主君から家来まで広く信望を得ていたことがあげられるが、関ヶ原の戦い以降に長近が大名としての地位を確立できたのは、やはり戦いでの功績によるところが大きかったのではないかと考える。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、長近は家康配下の酒井忠次と別動隊を率いて鳶ヶ巣山砦を奇襲攻撃し陥落させた。
これにより退路を断たれた武田勝頼は、無謀とも思われる設楽原での決戦を余儀なくされた。
同年8月には、織田信長の越前一向一揆の制圧に際し、美濃口から大野入りした長近は、一揆軍を早々に蹴散らし同地を平定し、その恩賞で大野郡の3分の2を与えられ、北陸方面軍司令官の柴田勝家に従う与力とされた。
その後長近は大野盆地の亀山に越前大野城を築き、城下町の整備も行い、現在の大野市の基礎を築いている。
天正10年(1582年)2月の甲州征伐では、飛騨口の大将を務めていることから、この頃の長近は信長家臣としての地位はすでに高かったといえる。
しかし同年6月には、本能寺の変が起こり、59歳になっていた長近は突然大きな岐路に立たされた。

豊臣秀吉時代

長近は、本能寺の変で嫡男の金森長則を失っている。
長則は、元服を済ますと織田信忠に近侍として仕え、本能寺の変で討ち死にしたが、信忠に早くから期待をされていたことから、長近とともに織田家が親子にかけた期待の高さが伺える。
その後、長近は金森可重を養子に迎えた。
信長亡き後、織田家では勝家と秀吉の抗争が生じ、両者が雌雄を決した賤ヶ岳の戦いで、勝家の与力である長近は当初、勝家についていたが前田利家と共に突如として戦線離脱し、これにより秀吉軍の勝利を決定づけた。
長近は、謝罪の意を表すため剃髪して秀吉の家臣となった。


長近は信長直参として、ほとんどの主要な戦いに参戦したが、秀吉に従った後もそれは変わらず、天正12年(1584年)3月には、小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)8月には、富山の役に参戦している。
秀吉は自身に敵対を続ける佐々成政を征伐するべく、自ら越中に乗り出した。
同時に秀吉は、成政の同盟者である飛騨国・姉小路頼綱の征伐を長近に命じ、征伐軍から分かれた長近軍と、領国からの可重軍とで南北から侵攻し、短期間で姉小路を制圧した。(飛騨征伐)
長近は、この飛騨征伐で姉小路を制圧したことにより、飛騨一国を与えられ天神山に城を築き、高山城と名付けここに拠点を置いた。
同時に城下町の整備も行い、観光地として名高い高山市の基礎を築いている。
長近は、千利休の門下で茶人としても才があり、秀吉の晩年は御伽衆(おとぎしゅう)を務めたとされ、この頃の長近の生活の拠点は京都に変わっていた。
秀吉が湯治を行う際は、長近が秀吉を背負って入湯したと伝わる。
しかし、武将としての長近もいまだ健在で、文禄の役・慶長の役でも可重と共に肥前国・名護屋に在陣している。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)の秀吉死去による豊臣政権の主導権争いは、やがて関ヶ原の戦いへと発展していく。
慶長5年(1600年)家康は諸将を率い大坂を発ち、上杉景勝を征伐するため会津に向かうが、その隙をついて挙兵してきた石田三成を討つため、この会津征伐を中止せざるを得なくなった。
長近も可重と共に征伐軍に加わっていたが、会津征伐の中止が決定すると諸将と行動を共にし西上する。
天下分け目の決戦地に着陣した長近はこの時77歳で、最年長ながら三成勢相手に奮闘を見せた。
関ヶ原の戦いの後、長近は家康と岐阜城の天守に登った。
その時に、家康は長近と思出話をしながら、長近に大垣を与えようとしたが、長近はそれを固辞し美濃国・上有知の領有を望んだ。
家康は、茶の湯や蹴鞠など風流の世界にも通じた長近を高く評価し「気相の人」と称して親交を深めたという。
長近は高山の藩政運営を可重に任せ、自身は加増された上有知を隠居地として小倉山に城を築き、その城を小倉山城とした。
長近が整備した長良川沿いの上有知湊は、産業物資の輸送基地や、木材の中継基地など長く物流の拠点を担うことになる。
長近は商業を重視した町造りを目指し、頻繁に洪水の被害を受けてきた町を高台に移すなど、江戸時代を通して繁栄していく上有知の基礎を築いた。
その後上有知は、長近の82歳の時に生まれた次男・金森長光に引き継がれた。
金森長近、慶長13年(1608年)8月12日、京都で死去、享年85歳。


家康の称した「気相の人」は、気体のような人物という意味である。
戦国乱世においては、気体のようになくてはならなかった存在であったから、家康もこのように評したのであろう。

(寄稿)浅原

内ヶ島氏理 土砂に埋もれた悲劇の武将 飛騨の一大勢力
飛騨・高山城 戦国時代に日本で5つの指に入った立派な城跡
金森長近~赤母衣衆から北陸方面を任される

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