明智光秀を推理する~日本歴史上最大ミステリー「本能寺の変」の謎、そして南光坊天海へ

天海

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明智光秀とは

1528年(享禄元年)~1582年(天正10年)戦国時代~安土桃山時代の武将であり、織田信長の重臣の一人であった。
明智光秀(あけち-みつひで)は、信長が将軍・足利義昭を擁して京へ上がり、天下取りへ躍進してゆく過程に、新興勢力の信長と、古くからの幕府としての権威を持つ義昭、この二人の間を取り持つなど数々の功績や貢献により、信長から厚い信頼を得る重臣となってゆく。

しかし天正10年6月2日、主君である信長に反旗を翻し、京都の本能寺において、信長を自害に追い込んだ、所謂「本能寺の変」といわれる謀反を起こす。
しかし、信長を討ってからわずか13日後、水攻めで有名な備中高松城の戦いのさなか、光秀の謀反の報を受け、神業ともいえる速やかさで軍勢を引き返してきた羽柴秀吉との「山崎の戦い」に敗れ、光秀の謀反は一般的には失敗し、逆賊の汚名を着せられた、というのが後世の評価となってしまう。
世にいう「三日天下」である。

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その後、光秀は言い伝えによれば坂本城へ落ち延びようとしていたが、地元の百姓の落ち武者狩り(賞金稼ぎのようなもの)に遭い、深手を負ってしまい、落ち延びるのは無理だと判断し自害したとされている。
そして光秀の首は近くの竹藪の溝に隠したが、百姓に発見され本能寺にさらされた後、丹波亀山の谷性寺に持ち帰られたといわれているが、その顔は皮が剥がされていて、本人とはとても見分けが付かない状態だったという。
そのことからも「本能寺の変」以後の明智光秀にまつわる様々な憶測や伝説が派生している。だが必ずしもそれらが単なる作り話だと裏付ける証拠も存在しない。

【何故、主君、織田信長を討ったのか……そしてその後の光秀の運命は。
日本の歴史上でこれほどのミステリーはあるだろうか?古代史であるならまだしも、比較的に文献もそろっている中世の人物である。
そんな明智光秀についての謎はこれまで多くの議論の対象となって来たのだが、未だに決定的な決着を見ない】

さて、この度は、そんな明智光秀のミステリーに一石を投じてみたい。

どうして「本能寺の変」が起きたのか? 明智光秀の動機とは?

明智光秀がクーデターを起こした理由について諸説あることは広く知られていることだろう。
有名なところでは「怨恨説」・「野望説」・「黒幕説」といったところである。
そしてこれらを裏付ける逸話も、それが事実かどうかは置いておき多くの方がご存知のことだろう。

まず、光秀を突き動かした動機の一つとして、怨恨や野望といった心理は必ずあったであろうと考えられる。
それは史実に残る織田信長の神をも冒涜するような所業を見れば明らかであり、この神とは光秀から見て、朝廷であり、幕府の権威であり、天下泰平の世のことである。

断っておくと、過去から現在に至る偉人たちを一方の見解で正義や悪と位置付ける判断はできない。
しかし、当時の光秀には信長が魔王のような存在に映っていたのではないだろうか。そして、事を実行に移す引き金となったのが、四国、長曾我部氏の領土問題があると考えられる。
四国で覇権を争っていた長曾我部氏と三好氏。
光秀は信長と長曾我部元親の間を取り持ち、元親は信長に忠誠を誓うことで自身の領土を安堵される約束であった。
ところが、天正9年6月のことである。四国全土を制圧するほどの勢いを見せていた長曾我部元親に、信長は一転して「四国の支配は三好氏に任せ、長曾我部氏は三好氏を援助せよ」との命令を下す。
これまで命がけで手に入れてきた領土を一方的に三好氏に明け渡せという命令には当然従えるはずはない。そして明智光秀の面目も失墜してしまった。

これは、命令に従わない長曾我部氏を滅ぼし、四国全土を我が物とするための、信長の策略であることは言うまでもない。


そして天正10年5月、信長はついに、四国征服への遠征軍を編成し、その出発は天正10年6月2日と定められた。
このままでは長曾我部氏の滅亡は決定的である。光秀からすれば、自分を頼り、忠節を尽くしてきた長曾我部元親を捨ておくわけにはいかない。
何より信長は光秀自身の立場をも蔑ろにしているのだ。この頃、水面下では信長打倒の声があちこちで上がっていたという証拠文献も見つかっている。
ここで重要になってくるのが、光秀の単独か黒幕がいたのか、といことになる。単独説だが、智将と名高い明智光秀が何の保険もかけずに、事実上の最高権力者であった織田信長に反旗を翻したりするとは考えにくい。
黒幕かどうかは別として、協力の約束を交わした人物或いは組織はいたはずである。
組織とは朝廷のことである。信長は天皇や朝廷の権威さえも蔑ろにしていた節もあり、朝廷からすれば信長は脅威の存在であっただろう。
朝廷は、ここに至る以前より光秀に信長打倒の打診をしていたのではないか。それに伴い将軍、足利義昭を旗印として幕府再興し、光秀にも相応の役職を確約するという類の内容であると考える。当初、光秀は迷いが当然のことながらあったであろう。
そして長曾我部氏の一件と、丹波・近江という自身の領土を取り上げられるといった、信長の傍若無人な振る舞いに光秀はついに決断に至る。練り上げた計画を実行に移すときがきたのだ。
自らが指揮する中国地方遠征軍を信長がいる都へ向けたのだった。その後の顛末は周知の通りである。
これは決して突発的な行動ではなく、光秀の義理と信念によって綿密に計画された必然的なクーデターであったといえる。
織田信長の四国遠征直前だったことからも、それが窺えることだろう。そして羽柴秀吉は、この計画を、恐らくは知っていたのではないだろうか。
表立って協力するなどの目立つことはせず、秘密裏に情報を入手していたにも関わらず、知らないふりをして何の手も打たず、光秀に計画を実行させた。
全てを知っていた秀吉は速やかに「中国大返し」を行い反逆者の光秀を討ち取る。秀吉にとってこの上ないことであろう。

その後の明智光秀

落ち武者狩りに遭い、死んだというのが定説だが、一方では実は生き延びており、その後、徳川家に仕えた僧侶、南光坊天海であったとされる異説がある。
これは、本能寺において信長は徳川家康を暗殺せるため、光秀に中国地方へ向かうと見せかけ京に向かわせ、呼び寄せていた家康を討ち取るという計画を言い渡していたが、実は光秀が家康と結託し、これに乗じて逆に信長を暗殺するといった「本能寺の変」の一説に関連して生まれた伝説の一つである。
親交が深かった光秀と家康が手を結び、光秀が謀反を実行。
そして家康が光秀を助け匿い、比叡山で修行を積み大僧正となる。というシナリオなのである。

この天海、光秀説の逸話も数多くあり、天海の出生がはっきりと解明されていないなど理由からこういった説が派生したと考えられる。
天海が光秀だと主張する逸話に、日光には天海が名付けたとされる「明智平」という場所があるのだが、これは天海が明智の名を残したかったからだという。
だがこれらの逸話を総合したとしても年齢的に合点がいかないのだ。


天海の寿命は100歳を越えていたというのは事実らしいのだが、もし天海が光秀だとすると、なんと亡くなったのが116歳だというのだ。
この時代に116歳まで生きるというのは俄かには信じ難い。恐らくは天海が光秀だというのはあり得ないことであろう。
このような悲劇の英雄にはこの手の伝説は付き物なのだ。
源義経のチンギス・ハン説もこれと同じようなことだろう。
反逆者の汚名を着せられはしたが天下を取った織田信長に果敢に挑んだ明智光秀に同情や憧れの念、はたまた信長の推し進める政策に疑念を抱く者も多くいたはずであり、そんな人々からからの称賛もきっとあったに違いない。
そういう意味で光秀は歴史を大きく変えた英雄として、後世までも深く人々の中に生き続けているのだ。

(寄稿)探偵N

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