天草史郎時貞~日本史上最大にして悲劇の一揆を指揮した少年

天草史郎時貞

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江戸期初期、長崎県・島原において起こった大規模な一揆である島原の乱は、幕府による凄惨な弾圧に対抗したキリシタンたちの反乱として、現代の人々も知るところであろう。
小学校などでの通り一変の歴史の授業では、天草四郎を総大将とした島原藩周辺のキリスト教徒(カトリック)である領民が、幕府のキリシタン迫害に対し一揆を起こし、結果幕府側の勝利に終わったという程度のことを学んでいることであろう。
しかし、何故幕府はキリシタンを弾圧したのか。
そして、島原の領民たちは何故、幕府に逆らってまで改宗を拒み、多くの犠牲を払ってまで戦ったのであろうか。
島原の乱は、その規模の大きさや悲劇的な要素、さらには神格化された天草四郎の存在から、多くのエンターテイメント作品のモチーフともなっている。
今回はこの島原の乱の経緯や、天草四郎の人物像について迫ってみたい。


天草四郎-あまくさしろう-

本名・益田四朗/諱・時貞(ときさだ)/1621年(元和7年)或いは1623年(元和9年)~1638年4月12日(寛永15年2月28日)
出生の地や生誕ははっきりとわかっておらず諸説ある。
名も一般的には天草史郎時貞と記憶している人が多いであろう。
キリスト教の洗礼を受けているためジェロニモやフランシスコという洗礼名もある。
容姿端麗であり幼少の頃から学問にも秀でていたとされ、イエス・キリストのように数々の奇跡を起こしたという伝説的な逸話も残している。
島原の乱ではそのカリスマ性から、島原一揆軍の旗印とされ総大将として擁立されるのだった。

山田右衛門作-やまだえもさく-

島原一揆軍において原城での籠城戦唯一の生存者とされていて、幕府に捕らえられたときの供述書(口書写)が残されており、島原の乱当時の状況がどのようなものであったかが語られている。

領民のキリスト教への改宗

徳川家康によって江戸幕府が開かれ、徳川政権が始まったばかりの戦乱の爪痕がまだ残る日本では、キリシタン大名と呼ばれる藩主が治める藩があり、肥前日野江藩(後の島原藩)の藩主・有馬晴信-ありまはるのぶ-もその一人であった。
日野江藩がある現在の長崎県の島原半島も地理的に西洋との交易を行うには適していることから、西洋の文化が取り入れやすく領民たちにもキリスト教の教えが広く浸透していた。
カトリックの宣教師たちも、島原の領民たちへ精力的にキリスト教や西洋の文化を伝えていった。
例えば、当時は病気になっても漢方薬しか治療の方法がなかったが、進んだ西洋の医学によって開発された薬などで治療された者は、驚くほどの早さで回復しただろう。
そんな進んだ医学や文化を目の当たりにすれば奇跡が起こったと思い込む人もいたのではないだろうか。
藩主の有馬晴信もローマ教皇に使節を送るなど、熱心なキリシタンだったこともあり、領民のほとんどがキリスト教に改宗していった。
宣教師から説かれるキリスト教の教えは、神を世界の創造主として崇め信じることで自分自身の魂も救われる(死後天国へ行ける)ということだ。
そしてその神の子であるイエス・キリストを崇拝し信仰するというのが基本的な教義である。
しかし、この神を信じる信仰心が後の島原の乱においての悲惨な結末に繋がってしまうこととなる。

幕府の禁教令

キリスト教の日本への浸透は、日本そして江戸幕府にとっては脅威となっていたのも事実なのである。
カトリック宣教師は日本人の改宗を先導し、日本人の主な宗教であった仏教や神道などの他宗教を排斥し、それに伴う国内での宗教戦争へ導こうとする企みを将軍・徳川家康は掴んでいたというのだ。
江戸期初期に日本でキリスト教の布教活動を支援していたのは、カトリック宣教国であるイスパニアとポルトガルであったが、当時のイスパニアとポルトガルは世界中に植民地を拡げ占領支配するという野望を抱いていおり、ローマにおいてもカトリック諸侯による武力征服は有効であり容易に可能だという書簡も残されている。
その影響はすでに日本、島原に及んでいた。
島原の藩主・有馬晴信と宣教師ルイス・フロイスの間では領内にある寺社仏閣の破壊と領民のキリスト教への改宗、そして鉛と硝石の提供という約束が交わされていた、藩主・有馬晴信の公認が得られたことにより、やがてキリシタンたちの布教活動は過激なものとなっていく。
寺の僧侶が隠していた仏像をキリシタンは強奪したり、寺社に放火したりといった、宣教師の扇動によりキリシタンたちは異教徒への激しい攻撃を行うようになっていったのだった。
そのような騒動となっているなか、幕府としてもやがては国そのものを危機に陥らせかねない事態として、手をこまねいているわけにはいかず、キリスト教布教活動への制裁を行うきっかけを探っていた。
そんな中、1612年(慶長17年)2月に、この事態を一変させる事件が発覚した。
有馬晴信と幕府目付役であったキリシタンの岡本大八との収賄事件である。
有馬は領地拡大を狙っていたとされ、幕府は有馬を捕らえ死罪に処した。
これをきっかけに幕府はキリスト教の弾圧を開始し、1614年(慶長18年)12月、徳川家康は禁教令を布告した。
禁教令とは、特定の宗教の信仰や布教を禁ずる法令で、当時の禁教令はいわゆるキリスト教禁止令である。
そして家康は、諸大名に対しキリスト教宣教師の国外追放を命じた。

キリシタンの弾圧

有馬晴信に代わり、肥前日野江藩主となったのは松倉重政で、政庁も日野江城から新しく築かれた島原城へと移ることとなる。
そして松倉重政とその嫡男勝家の代には徳川家からの圧力もあり徹底的なキリシタン弾圧と領民への過酷な課税が行われた。
その残忍さはまさに凄惨を極め、キリスト教から仏教や神道への改宗を拒んだ者は顔面に吉利支丹(キリシタン)という焼き鏝を押されたり、指を切り落とされたりといったことや、雲仙地獄といわれる煮えたぎる源泉に突き落とされるなどの迫害を受けることとなったのだ。
また、松倉氏は領民から過酷な搾取(税の取りたて)も課しており、年貢を納めることができない農民に対しても同じような残酷な拷問や処刑といった迫害を行ったとされている。
年貢を納められない者に蓑を着せ、生きたまま火あぶりにして苦しみもがく姿を蓑踊りといって喜んでいたという。
まさに島原は地獄絵図のそのものだったといわれている。
このような弾圧や迫害により、キリシタンは一掃されたかに思われた。
しかし、そのような状況でも神への祈りと希望を絶やさない人々が島原に存在していたのだ。
そんな彼らはコンフラリアという、秘密裏に信仰を行う組織を作っていた。
隠れキリシタンと呼ばれる人々のことである。
そんなコンフラリアへローマカトリック総本山であるバチカンから励ましの手紙が届く。
ローマ教皇・ウルバノ8世が島原のキリシタンへ送った手紙には「我らはこれより、殉教をも覚悟して母国を捨て去る覚悟を持つ宣教師の大群を、あなた方の所へ送ることにする」という内容が記されており、コンフラリアの人々にとっては大いなる希望となるのだった。

救世主の誕生

キリシタン弾圧が行われてから20年以上の年月が経っていた。
世は3代将軍家光の治世へと移っていた。
島原では松倉重政の後を継ぎ藩主となっていた勝家からも、父である重政以上のキリシタン弾圧と過酷な税が課せられていた。
しかし1637年(寛永14年)のことである。
島原では数年に渡る飢饉に見舞われていた。
それでも年貢の取り立ては厳しく領民の多くは飢餓に苦しむほどの事態となっていた。
そのような状況下で、表向きにはキリスト教を捨てた人々が突然キリシタンであることを宣言し始めたのだ。
密かに信仰を続けていた人々には一つの希望があったのだ。
それは、幕府による禁教令によって宣教師たちが日本から追放されるときに残していた予言で「やがて善人が生まれ出るであろう。
その子は習わずともあらゆる学問を極め、人々の頭上に十字架を立てることであろう」というものであったという。
丁度そのころ、島原とはすぐ近くの天草という処に一人のカリスマ的人気を博した少年が表れる。
名を益田四朗。
そう、あの天草史郎時貞であった。
当時の年齢は諸説あるが16歳であったといわれている。
四朗はキリスト教の経典や書物などを全て暗記し、一語一句違えずに人々に説いて聴かせていたという。
キリシタンたちは四朗少年に救世主の姿を見たに違いない。
松倉家の悪政に業を煮やしたキリシタンをはじめ、商人や農民たち領民たちはついに天草四郎時貞という美少年を旗印に決起するのだった。
そして島原の乱が始まった。
ちなみに島原の乱は永く続いた松倉家への領民の怒りが積もり起こったことではあるが、実際のきっかけとしてはある村の与左衛門という庄屋の妻が身重でありながら納められない年貢の人質として捕らえられ、裸にされ極寒の水牢に入れられ死亡したという事件に端を発する。
村民も何とか与左衛門の妻を助けようとしたが年貢が納めることができず、6日間苦しんだ妻は水中で出産した子と共に絶命したという。
このことに、領民たちの怒りは頂点に達し代官所を襲撃し代官を殺害というかたちで島原の乱が開始された。

島原の乱とその結末

幕府や松倉家のキリスト教弾圧により、改宗した島原の領民たちも、天草四郎の出現によりそのほとんどが再びキリシタンへと改宗していった。
山田右衛門作もその一人である。
天草四郎が総大将となり、ここに一揆軍が決起することとなった。
しかし当時四朗はいくらカリスマ的人気があった人物とはいえ、戦略や戦術の知識があるわけではない15・6歳の少年であった。
おそらくは、現実的に一揆の指導者たちが領民たちの志気を統率するために、四朗を神格化し祭り上げたことが、数々の神のような逸話にもなっていったのであろう。
だが、領民たちの救世主としての噂は瞬く間に拡がり一揆軍は膨れ上がっていく、そしてついに1937年(寛永14年)10月25日島原の乱が勃発する。
その戦線は島原と、隣の天草にも伸びていった。
翌10月26日一揆軍は島原城へと進軍する。
その知らせを受けた徳川家光は、島原に総勢12万という大軍を一揆鎮圧に動員した。
対して一揆軍は3万7千。
どう考えても勝ち目のない戦いである。
そこで一揆軍は、島原半島にある背面が海に面している原城に籠城する作戦に出た。
これは、キリシタンたちの決起の知らせを受けたバチカンが以前手紙にて約束してくれた宣教師の大群を送ってくれるという希望やポルトガルからの援軍をアテにした作戦でもあった。
しかし、実際にはその知らせを知ったバチカンも、ポルトガルも島原のキリシタンたちを救う気はなく、関係ない事として見捨てられてしまうのだった。
しかし、キリシタンたちは神のご加護を最後まで信じ、幕府軍に決して屈することはなかった。
だが、数ヶ月に及ぶ幕府軍の攻撃に徐々に耐える力を失っていった一揆軍に、1638年(寛永15年)2月27日、幕府軍は総攻撃を開始する。
圧倒的兵力に勝る幕府軍は、心身共に疲弊した一揆軍に容赦なく襲いかかった。
そして女子供まで籠城していた全ての人々は惨殺されてしまう結末となった。
ただ一人、幕府に投降しようとして一揆軍に捕らえられ幽閉されていた山田右衛門作だけが生き残る結果となった。
天草史郎もこのとき斬首され命を落としている。

1938年(寛永15年)2月28日、島原の乱は終結した。
天草史郎やキリシタンたちは、幕府からの再三の投降の呼びかけにも応じず、神を信じ、奇跡を信じて命を落としていった。

幕府軍はキリシタンたちの遺体を、原城もろとも埋め尽くしたのだった。

島原の乱終結後、幕府は禁教令をさらに強化し踏み絵などを駆使し隠れキリシタンのあぶり出しなど宗門改めも開始される。

1639年(寛永16年)7月、幕府3代将軍・徳川家光はポルトガルとの国交を断絶。
そして鎖国が始まった。


結局、天草四郎という少年はどのような人物で、何をしたのか。
その人物像は謎に包まれている。
しかし、当時の島原のキリシタンにとって精神的な支えであったということだけははっきりしている。
素晴らしい才能を秘めた少年であったことは想像に難しくなく、だからこそ、その才能を利用され島原のキリシタン一揆の象徴に仕立て上げられたのであろう。
生まれた時代や場所が違えば、自らの才能や自由な人生を謳歌できたであろう、その悲劇の少年が後世の人々に残してくれたものとはいったい何なのであろうか。
そのことに少しでも思いを馳せて、自らの人生を懸命に楽しく生きることが、彼や島原で散った自由を奪われた人々への供養になるのかもしれない。

(寄稿)探偵N

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