「武蔵坊弁慶」命を賭して主君を護らんとした豪傑~その漢の壮絶なる人生と死に様とは

武蔵坊弁慶

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源氏の英雄、源義経に仕えた豪傑として名高い武蔵坊弁慶(むさしぼう-べんけい)。
弁慶についてはドラマ、映画、小説、漫画、ゲームといった様々な創作の物語にも登場し、日本人はおろか日本史好きの多くの外国人にも知られる人物であり、その壮絶なる弁慶のエピソードは深く人々の心に刻まれているに違いない。

この度は、この武蔵坊弁慶という、人々の心に宿る豪傑の生涯と魅力について迫ってみたい。

武蔵坊弁慶

死没は西暦1189年6月15日とされ、生まれは「義経記」によれば紀伊国の出身とあるが、詳細については不明である。
比叡山で修行した僧侶で卓越した武術を会得していた。
終生の主君となる、源義経との出会いは諸説あるが、尋常唱歌「牛若丸」での逸話で、京都の五条大橋で二人が対決したのが出会いとされている。
他にも「義経記」に記される清水観音の境内等の説もある。

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義経と出会い、家来となってからは豪傑と呼ばれるに相応しい活躍で、平家討伐に代表される戦い等で義経と共にその名を轟かせる。
やがて義経は兄である源頼朝との関係が破綻に至り、追われる身となった義経と最後まで運命を共にする。

どちらが欠けても語ることのできない弁慶と義経の関係。
義経から信頼された弁慶の力と智謀、弁慶を虜にさせた義経の才と器。この二人の物語を紐解いていこう。

武蔵坊弁慶と牛若丸、二人の運命の出会い

有名なエピソードである五条大橋での二人の出会いと対決である。
乱暴者だった弁慶は自らの武術の力を見せしめるためか、千本の刀を武士から奪い集めようと目論んでいた。
決闘して奪った刀は999本になり、最後の1本となる千本目で五条大橋にて出会ったのが当時の牛若丸(後の義経)であった。
牛若は太刀を腰に佩び、笛を吹いて橋を渡ろうとする。
そこへ弁慶が襲い掛かるが牛若は欄干を飛び攻撃をかわし、弁慶を返り討ちにする。
弁慶は手も足も出ず降参し、その鞍馬天狗かのような牛若の舞いに敬服した。
以後は源義経となる牛若丸の忠実な家来となった。

このエピソードは明治期の作家による創作なのである。
そもそも義経や弁慶を題材にした作品は昔からあまりにも多い。
そのストーリーも史実を元にはしているだろうし全てが作り話ではないとはいえ、エンターテイメント作品としてよりドラマチックなものにするため脚色するのも当然といえよう。
では、二人の本当の出会いはどのようなものだったのか?
それはミステリーであり、後世の人々の心を魅了する。
何故ならば牛若と出会う前の弁慶は、それは荒くれ物で、幼少の頃から、父には鬼子だと恐れられ殺されそうになり、引き取られた叔母には鬼若と名付けられるほどだったのだ。
そして五条大橋の逸話等で999人もの武者を襲って刀を奪うという描き方をされているというのが、大袈裟な話ではあるにせよ、少なからず弁慶がそれに近い人物だったという証明なのではないだろうか。
そんな弁慶を牛若は従え、生涯をかけて守護するまでにしてしまうのだから、見事としか言いようがない。

安宅の関のドラマ(如意の渡し)

義経は頼朝の手を逃れるため京を落ち、義経一行は山伏の姿に変装し逃亡することとなる。
義経らは奥州藤原氏の平泉に向かう途中、安宅の関にて弁慶は、偽勧進帳を読み聴かせ関を越えようとするが、関守の富樫泰家に義経の正体を見破られてしまう。
それを指摘された弁慶は主君である義経を杖で何度も打つのだった。
まさにこのシーン、義経関連の話では欠かせない有名なエピソードである。
弁慶の「おぬしなどが義経様に似ておるなどと……」と言わんばかりの鬼のような仕打ちに義経は黙って耐えている。
全ては義経を救うために弁慶は鬼となり心で泣いている。
それがわかっている義経も俯いたまま弁慶の心に応えようと動かない。
そんな二人の信頼と絆が伝わってくる名シーンである。
そして、その光景を目にしていた富樫氏は心を打たれ、あえて義経一行に関を通過することを許すのである。
これは能や歌舞伎で登場する話で、ドラマや映画でもこの逸話が元になっていることが多い。
「義経記」では、このエピソードでの舞台は安宅の関ではなく、現在の富山県の小谷部川で如意の渡しという渡し舟に乗船する際、平権守という渡し守に義経が見破られ、以下同じ。といった展開である。

この当時の義経一行の立場は、今で言うところの全国指名手配犯である。
実際にこの通りの事があったのか、或いはこれに近い事があり時を経てこういう逸話になったかは真実のほどはわからない。
しかし、英雄である義経一行が逃避行するとなると、状況はこの逸話の出来事よりもさらに厳しく、苦しい旅であったことは想像に難しくない。
現実には安宅の関のような出来事は氷山の一角であり、様々な困難が彼らを襲い、それを一行の牽引者であった弁慶が主である義経を守護していたのであろうことは疑う余地はない。

弁慶の立往生

源義経一行は奥州まで逃れ、平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せた。
秀衡は源頼朝の圧力が及ぶ中、義経を擁し鎌倉勢に対抗しようとしていた。
だが、西暦1187年(文治3年)に病死してしまう。そこで頼朝は秀衡の後継者である泰衡に、朝廷を通じ義経捕縛の圧力をかけるのだった。
そしてついに藤原泰衡は父秀衡の遺言である『義経殿のお指図を仰げ』という命を破り、衣川の館において義経一行を襲った。
世にいう衣川の戦いである。
藤原勢五百に対し義経勢は僅か十数人の兵であった。鈴木重家や亀井重清といった従者達が次々に倒れていく。
孤軍奮闘の武蔵坊弁慶は義経夫妻とその娘がいる館の堂の入り口にて、数百から放たれる雷雨のような矢からその身を挺して主君を護るのだった。
弁慶は薙刀を地についた構えから一歩も退かず、無数の矢を浴び仁王立ちしたまま絶命する。弁慶の立往生と語り継がれる壮絶なる最期であった。

平泉・義経堂

まさに弁慶を語る上で代名詞ともいえるシーンである。
漢気とはこの事ではないだろうか。
実は史実されるものには弁慶の逸話はあまり触れられておらず、これらのことが本当にあった出来事なのかは定かではない。
だが、このような人物であったと語り継がれるところに弁慶の真の魅力があったのではないだろうか。
例えば古事記や日本書紀にしても一昔前まではただの神話として扱われていた。
しかし、近年それを裏付ける証拠などの発見が相次ぎ史実を神話に置き換えて残したものだという論が有力視されてきている。
火のない所に煙は立たぬ、ということだ。史実とは歴史の要点だけを捉え残しているものであり、逸話とは語り継がれてきたものなのだ。
つまり、それに足る人物であったからこそ、逸話も残り、脚色もされ後世に至るまでその名が轟いているに他ならないのだ。


現代においてもなお、弁慶にちなんだ用語がよく使われている。

弁慶の泣き所、人間の脛である。
ご存知の通り、どんなに鍛えていてもここを打てば涙が出るほど痛いことからきた言葉だ。

弁慶の七つ道具、弁慶が持っていた七つの武具からきた言葉で、○○の七つ道具という使い方をされる。

内弁慶、例として有名なのは2003年のプロ野球日本シリーズである。
阪神タイガースと福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)の対決ではお互いに全て本拠地でのゲームで勝利したが敵地では負けた。
このように、家では強いが、外では弱い人のこと。

こうしてみても、平安時代の人物の名が現代でも人々でも使われている。
あまり弁慶を知らない人でさえも、知らないうちに弁慶を口にしているのだ。
弁慶という漢は今もなお主君を護り、我々の中に立往生し続けていくのであろう。

(寄稿)探偵N

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