大姫の解説【源頼朝・北条政子の長女】

大姫




大姫 (おおひめ) は、源頼朝の長女として、平安時代末期の1178年に、伊豆にて生まれました。
母は、北条時政の娘・北条政子です。
父・源頼朝は、北条時政に預けられ、伊豆の蛭ケ小島にて謹慎していましたが、その際に生まれた娘となります。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、大姫を女優の南沙良(みなみさら)さんが演じられます。

大番役として京の警護から伊豆に戻った北条時政は、北条政子の懐妊を知り、結婚に反対しました。
源頼朝を監視する役を、平家から託されていたのですから、結婚に反対したのは当然と言え、北条政子は、幽閉されましたが、大雨の夜に抜け出して、源頼朝の元へ戻ったとされます。
最終的に北条時政は2人の結婚を許し、無事、大姫が生まれたと言う事になります。
大姫と言うのは実名ではなく、偉い人の長女であると言う意味になります。
本当の名前は、一幡姫(いちまん-ひめ)とする説もありますが、確証はありません。
鎌倉幕府2代将軍・源頼家の嫡男で、母は比企能員の娘・若狭局の男子も、源一幡とされます。


1180年、以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、伊豆にも源行家がやってきて源頼朝に挙兵を促しました。
計画が露見して以仁王が敗死すると、源頼朝にも平氏の鎮圧軍が向けられる可能性が出て来たことから、挙兵せざるを得なくなり。源頼朝は伊豆目代・山木兼隆の屋敷を襲撃しました。
しかし、石橋山の戦いで惨敗となり、北条政子の長兄・北条宗時が討死しています。
北条政子と大姫は、伊豆山に逃れていた模様です。
源頼朝は北条時政、北条義時らと安房国(房総半島)に逃れたあと、再挙すると、関東の武士らが協力し、瞬く間に鎌倉を制圧したため、北条政子と大姫らも、鎌倉に赴きました。

1183年春、木曽義仲(源義仲)は、11歳の長男・源義高を人質として鎌倉に送り、6歳の大姫の婿とする婚約を結び、源頼朝との対立解消を図っていています。
しかし、木曽義仲は京を治めることに失敗し、後白河法皇とも対立したことで、源頼朝との和議も長く続かず、翌年1184年正月には、源頼朝の木曽義仲討伐軍(源範頼源義経)が、京に送られました。
木曾義仲が滅亡し、鎌倉に残されていた、木曽義仲の嫡男・源義高 (清水冠者)を、源頼朝が誅殺しようとすると、大姫は、源義高を助けようと、密かに逃がしました。
1184年4月20日夜明け(4月21日早朝)に、源義高(木曽義高)の側近で、同年代の海野幸氏(うんの-ゆきうじ)が、源義高の寝床に入って身代わりとなり、木曽義高は女房姿となって、大姫の侍女たちに囲まれて、屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出しました。
馬の蹄には、真綿が巻かれていて、足音が響かないようにしてあったと言います。
しかし、夜になって脱走したことが判明し、源頼朝は海野幸氏(海野小太郎幸氏)を捕らえ、追っ手として堀親家らを派遣しています。
この時、大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったと伝わります。
木曽義高は、4月26日に武蔵・入間河原で捕捉され、堀親家の郎党・藤内光澄に討たれました。享年12。

この事は内密にされていたが、知った大姫は、悲嘆のあまり水も飲めなくなります。
6月27日、大姫が病床に伏し、日を追って憔悴していくのは、堀親家の郎党の不始末だからだと源頼朝に強く迫ったため、討ち取る戦功を挙げていた、藤内光澄が、晒し首となりました。
※海野幸氏は、主君への忠勤振りを褒められて、鎌倉幕府の御家人に加えられました。


まだ7歳の大姫は、深く傷付いており、床に伏す日々が続きます。
追善供養、読経、寺院への加持祈祷など行い、狭山・入間川のほとりに木曽義高を祀る清水八幡宮も建てるなど、北条政子も手が尽くしましたが、大姫が元気になることはありませんでした。

1184年8月、後白河法皇は、源頼朝との関係を更に良いものとするため、大姫を、摂政・近衛基通の妻に迎えたいと打診します。
近衛家には、源頼朝の乳母・比企尼の外孫である島津忠久(島津氏の祖)が仕えていましたが、源頼朝は拒否しています。

1185年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすと、源義経と京に逃亡します。
しかし、源義経の愛妻・静御前は鎌倉勢に捉えられて、1186年4月8日、源頼朝の命にて鶴岡八幡宮で舞いました。
更に、大姫が病気快復祈願のため参籠していた勝長寿院でも、5月27日、白拍子の名手である静御前は舞を披露しています。
その後、身籠っていた静御前は、男子を産み、北条政子と大姫の助命嘆願もむなしく、源頼朝は子を由比ヶ浜に遺棄させています。
京へ帰る静御前と母・磯禅師に、大姫は多くの重宝を与えたと伝わります。

1194年7月29日、大姫が危篤状態となったとあり、8月8日、源頼朝は日向薬師まで出向いて、大姫の病気治癒祈願を行いました。
そして、源頼朝の甥・一条高能(18歳)が鎌倉へ下ると、病状が一時小康状態となった大姫(17歳)との縁談を、北条政子が進めます。
しかし、大姫は「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と拒絶しました。

1195年2月、源頼朝は、北条政子・源頼家・大姫と、上洛して宮中に参内しています。
また、奈良・東大寺の大仏殿の落慶供養にも参列し、石清水八幡宮も参拝しました。
ただし、この上洛は、大姫を後鳥羽天皇への妃にするべく、宣陽門院の生母・丹後局と会って、入内工作を行ったものとされ、相手が帝(天皇)であれば、大姫も喜ぶだろうと考えたようです。
しかし、土御門通親など朝廷の反発も強く、なかかな実現しないまま、大姫は、病から回復する事なく、建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去しました。享年20。
源氏の菩提寺の性格が強い、鎌倉の勝長寿院に葬られたと考えらていますが、鎌倉幕府滅亡後、荒廃しており、よくわかっていません。


伊豆山神社の麓・熱海には、大姫の延命祈願のため北条政子が建立したと伝わる、逢初地蔵堂が残されています。
大姫の死を受けて、北条政子も後を追おうとしましたが、母まで死んでしまっては、大姫の後生に悪いと、源頼朝かせ諌めたとされます。
その源頼朝も、2年後に落馬がもとで急死しました。
妹の三幡も重病に陥いり、源頼朝の死から2ヶ月後に、14歳で亡くなっています。

大姫の守り本尊であった地蔵が、鎌倉の扇ヶ谷にある岩船地蔵堂とされます。
また、大船の常楽寺に裏山に、大姫の墓と伝えられる塚がありますが、その近くには、木曾塚と呼ばれる木曽義高の墓もあります。
下記写真は、大姫の墓になります。

大姫の墓

ただし、常楽寺の大姫の墓は、異説では北条泰時の娘・姫君の墓とする場合もあります。

大姫の非業な生涯もそうですが、源頼朝に関係する人物では、長生きした人を探す方が、苦労するくらいです。
皆、若くして亡くなったり、襲撃されて命を落としたりしています。
その長生きした人物の代表例としては、北条時政(享年77)、北条政子(享年68)、大江広元(享年77)などがいますが、なぜ、長生きできたのか?と、疑ってしまいます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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