木曽義高の解説【鎌倉殿の13人】北条政子の娘・大姫の婚約者

木曽義高




木曽義高とは

木曽義高(きそ-よしたか)は、平安時代末期から鎌倉時代にかける、信濃・源氏の武将です。
父は、木曾義仲(源義仲)で、母は中原兼遠の娘になります。
吾妻鏡では、木曾義高と記載されていますが、源義高、清水冠者義高(志水冠者)とも書きます。


2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、市川染五郎さんが大河ドラマ初出演として、若き木曽義高を演じられます。

父・木曽義仲は、源頼朝と同じく、以仁王の令旨を受けて挙兵した源氏で、北陸宮を擁護し、倶利伽羅峠の戦いで、平氏の大軍を破り、入京した勇猛果敢な武将です。
妾・巴御前も有名です。
しかし、源頼朝の弟・源義経らが、鎌倉から数万の大軍を率いて京にのぼると、後白河法皇は、源義経ら源頼朝の鎌倉勢を頼りにします。
そのため、1184年、後白河法皇の要請によって源範頼・源義経は、宇治川の戦いなどで木曽義仲と戦います。
こうして敗れた木曽義仲は、北陸へ逃れようとしましたが、粟津の戦いにて、討死しました。享年31。

実はその前年1183年、木曽義仲と源頼朝が、武力衝突寸前となった際に、木曽義仲は11歳の嫡子を、人質として鎌倉へ差し出ていました。
その人質が、ここでご紹介する木曾義高と言う事になります。


木曽義高は、鎌倉幕府将軍・源頼朝と、北条政子の間に生まれた、大姫の婚約者と言う立場でした。
ところが、父・木曾義仲が討たれたことで、鎌倉にいた木曽義高の立場が悪くなります。
木曽義高が背いたことで、当然、源頼朝は人質である木曽義高を処刑しようとしました。

両親が決めた結婚相手でしたが、木曽義高の危機を知った大姫(6歳)は、母・北条政子の協力も得て、秘かに、鎌倉から逃がそうと考えます。
1184年4月21日、いつも双六の相手をしていた側近の海野幸氏が、木曽義高に扮して身代わりとなり、木曽義高は女装すると、大姫の侍女に守られて、屋敷から抜けだしたと言います。
目指した先は、菅谷館、鎌形館、奥州藤原氏など諸説ありますが、大姫が手配した、馬にまたがると鎌倉から脱出し、成功したかに思われました。
しかし、夜には逃走が露見し、源頼朝は海野幸氏を捕らえ、堀親家らを派遣して木曽義高(清水冠者義高)を討ち取るよう命じます。


そのため、木曾義高(木曽義高)は4月26日、武蔵国の入間河原の八丁の渡で追いつかれれて、堀親家の郎党・藤内光澄に首を捕られました。享年12。
首は鎌倉に送られましたが、遺体はそのままだったようで、里人により、討ち取られた入間河原に葬られましたが、畠山重忠らの助言があったようで、その地に狭山・清水八幡宮)が建てられています。

狭山・清水八幡宮

その後、木曽義高の残党が甲斐と信濃にて、謀反を企てているとし、信濃に大軍が派遣されています。

その木曽義高の死を知った大姫は、その後、長年、悲しみの病床に伏せ、源頼朝や北条政子も苦悩することになります。

神奈川県鎌倉市にある常楽寺の崖に、木曽義高の墓と伝わる木曽塚があります。

木曽義高(源義高)の石碑

側近だった海野幸氏と、望月重隆に対しては、咎めも無く、鎌倉幕府の御家人となったのは、救いと言ったところです。

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常楽寺の大姫と木曽義高の墓

高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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