畠山重忠 武蔵最大勢力として忠義を貫いた武士の鑑

畠山重忠

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畠山重忠(はたけやま-しげただ)は、平安時代の末期である1164年に、武蔵国畠山荘の豪族・畠山重能の子として、畠山館で生まれました。
母は正室である三浦義明の娘となりますが、側室である江戸重継の娘が産んだとする説もあります。
畠山氏は桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族ですが、父・畠山重能は、秩父重弘の嫡男であり、本来であれば武蔵の最大勢力・秩父氏の本家を継げる立場でした。
しかし、弟の秩父重隆が家督を継いでいたため、父・畠山重能は、源義朝・源義平と結ぴます。
そして、1155年、大蔵合戦(大蔵の戦い)にて、秩父重隆とその婿・源義賢を討ち、秩父氏の本拠地・大蔵館に移ったと考えられます。


なお、大蔵合戦では、敗れた源義賢の子で2歳だった駒王丸は、畠山重能の計らいで逃がし、斎藤実盛が駒王丸の乳母夫である信濃の中原兼遠のもとへ連れて行きました。
この駒王丸は成長すると「木曽義仲」と称し、治承・寿永の乱において平家や源頼朝と戦うことになります。

畠山重忠

ちなみに、28年後、木曽義仲は、命の恩人である斎藤実盛と、篠原の戦いにて敵同士となり、首実検の場で悲劇的な対面をします。

畠山氏の話に戻りますが本拠を菅谷館に移し、1159年、平治の乱で源義朝が敗死すると、同じ秩父一族の小山田有重らと、その後は、平清盛に従いました。

菅谷館の畠山重忠

1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵すると、父・畠山重能は大番役で京に滞在していたため、武蔵の領地に残っていた17歳の畠山重忠が、平家方として頼朝討伐に向かいました。

石橋山の戦いで、源頼朝が大敗すると、撤退してきた三浦勢と、鎌倉の由比ヶ浜で合戦したのち、三浦氏の本拠地・衣笠城を攻めた衣笠城の戦いにて、三浦義明を討ち取っています。
その後、源頼朝が再起を図り、安房から進軍を開始すると、畠山重忠は一族の河越重頼、江戸重長らと共に、長井渡し(埼玉県熊谷市の利根川)で源頼朝に帰伏しています。
源頼朝2万の軍は、各地で賛同者を集めるため、大きく迂回して、武蔵国府(東京府中市)を経て鎌倉に入ったようです。
この時、最高の名誉とも言える鎌倉入りの先陣を、畠山重忠が果たしています。
なお、武勇と人望に優れた畠山重忠が源氏に属すると、父・畠山重能は隠居したと推測されますが、平家との主従関係は保った模様です。

畠山重忠は重忠は武士の鑑と称えられ、鎌倉幕府において有力な御家人として、北条時政の娘(6女)を妻に迎えましたが、小山田城主・小山田有重のほうが厚遇されたようです。
1185年、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたあと、1186年に、源義経の愛妾・静御前が、鶴岡八幡宮にて源頼朝の前で白拍子の舞を披露したときには、畠山重忠が銅拍子を打って伴奏を務めています。

その後、梶原景時から謀反の疑いを掛けられますが、奥州合戦で先陣を務め、1199年に、源頼朝が死去した際には、遺言として源氏の子孫を守護するようにと命を受けています。

武蔵・御岳山の武蔵御嶽神社には、畠山重忠が奉納したとされる国宝の大鎧があり、日本三大大鎧に数えられています。

畠山重忠

1203年、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が幽閉されて、源実朝が将軍となり、執権の北条時政が実権を握ると、状況が変わり、畠山重忠の乱となります。

北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と争いとなっており、1205年6月22日、鎌倉に呼び出された次男・畠山重保(はたけやま-しげやす)が、北条時政の意を受けた三浦義村によって討たれます。
そのころ、武蔵・菅谷館の畠山重忠は、鎌倉で何やら騒ぎになっていると聞き、畠山重秀、本田次郎近常、榛沢六郎成清ら130騎を率いて鎌倉に向かっていました。
その畠山重忠を討つべく、北条時政は「謀反を起こして大軍で攻めて来る」とし、北条義時を大将に、葛西清重・堺常秀・大須賀胤信・国分胤通・相馬義胤・東重胤・足利義氏・小山朝政・三浦義村・三浦胤義・長沼宗政・結城朝光・宇都宮頼綱・八田知重・安達景盛・中条家長・苅田義季・狩野介入道・宇佐見祐茂・波多野忠綱・松田有経・土屋宗光・河越重時・河越重員・江戸忠重・渋河武者所・小野寺秀通・下河辺行平・薗田成朝、その他、大井氏・品河氏・春日部氏・潮田氏・鹿島氏・小栗氏・行方氏・児玉党・横山党・金子党・村山党、他にも北条時房・和田義盛らの大軍が鎌倉から出陣させ、迎撃しました。

そして、6月22日午後、二俣川で遭遇し、今朝がたに畠山重保が殺害され、追討軍が差し向けられたことを知ります。
しかし、潔く戦う事が武士の本懐であるとして、畠山重忠は逃げずに戦い「二俣川の戦い」となりました。
4時間の激戦になったとされますが、愛甲季隆が放った矢に畠山重忠は討たれ、首を取られた(享年42)。
畠山重忠の死を知った畠山重秀も自害(享年23)し、武蔵武士団の首領である畠山氏は滅びました。

鎌倉に戻った北条義時は、畠山重忠の軍勢は僅かで、謀反では無かったとし、涙を流して北条時政に報告したと言います。
なお、討伐軍を発動させ、畠山重忠を陥れた首謀者として、小山田一族の稲毛重成と、榛谷重朝らが、三浦義村らによって鎌倉にて殺害されました。
この二俣川の戦いにて、1ヶ月後、北条時政は、北条政子と北条義時によって追放され、京にいた平賀朝雅も誅殺されています。


僅かに残っていた畠山氏の所領は、畠山重忠の妻(北条時政の娘)に与えられ、その未亡人は足利義純と再婚しました。
そして、生まれた畠山泰国が、1度断絶した畠山氏の名跡を継いでいます。
子孫はのちに室町時代の三管領でおなじみの源姓・畠山氏であり、また、仙台の岩切城主になっており、二本松氏などを輩出しています。
特に能登畠山家は七尾城にて戦国大名になっています。
畠山重秀の子孫は藤田氏を称し、戦国時代には藤田信吉が見受けられます。

畠山重忠ゆかりの地

下記は、畠山重忠が生まれたとされる、畠山重忠公史跡公園にある、畠山重忠の産湯井戸です。

畠山重忠の産湯井戸

地名も畠山ですので、畠山館跡と言って良いでしょう。
そして、畠山重忠の立派な供養塔「畠山重忠公之墓」があります。

畠山重忠公之墓

畠山重忠公史跡公園がある場所や、二俣川の戦いの場所などは、当方のオリジナル地図「関東」にて分かるようにしてあります。

斎藤実盛とは~木曽義仲もその死を悲しみ「武士の鑑」とされる武将
畠山館(畠山氏居館、畠山氏館) 畠山重忠公史跡公園
武蔵・菅谷城(菅谷館)
源義賢 埼玉にある源氏三代供養塔と木曽義仲の父の墓
木曽義仲(源義仲)とは
武蔵御嶽神社と御岳山ケーブルカー(御岳登山鉄道)

 

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