相馬義胤の解説~伊達氏と争い戦国を生き抜いた奥州相馬氏つづき

相馬義胤





相馬義胤とは

相馬義胤(そうま-よしたね)は奥州相馬氏の15代当主相馬盛胤の嫡男として生まれます。生年は天文17年(1548年)で母は懸田義宗の娘です。妻には伊達稙宗の末女を迎えており、義胤も伊達の血を深く受け継いでいました。

父相馬盛胤より31歳にて家督を相続した相馬義胤は、天正9年(1581年)5月宇多郡に侵攻してきた伊達輝宗と対陣します。
この出陣では輝宗の嫡男伊達政宗が初陣を果たしており、1581年の同年7月には義胤も伊達氏諸城矢野目城攻略のため出陣、伊達軍と座流川をはさんで対陣します。
しかし、この日の夜に相馬軍は伊達軍の奇襲を受け退却、このとき義胤が自ら殿を指揮しています。



天正10年(1582年)伊達輝宗は相馬氏に奪われた金山城奪還のため出陣しますが反撃に合い退却、その後再び田村清顕が両氏の和睦に乗り出します。
しかし、和睦の条件が当時相馬氏が攻め取っていた金森・丸森の両城返還だったため義胤はこれを拒絶、その後も清顕は和睦のために奔走し、天正11年(1583年)ついに義胤は和睦を受け入れます。
そして伊達氏では翌天正12年(1584年)に伊達輝宗が隠居、嫡男伊達政宗に家督を相続します。

その後相馬氏と伊達氏はしばらく平穏な日々が続きますが、伊達氏では伊達政宗が勢力を拡大、人取橋の戦いでは九死に一生を得ますが奥州に一大勢力を築きます。

このような情勢に対し相馬義胤は、伊達政宗へ今後も和睦を重視する旨を伝えています。しかし、天正14年(1586年)10月両家と関係が深い田村清顕が急死したことにより、和睦は破綻となります。

亡くなった田村清顕の妻は相馬義胤の父相馬盛胤の妹で、間に生まれた娘は伊達政宗の妻になっていました。
このような血縁関係から清顕死後、田村家家臣は後継者を巡り相馬派と伊達派に分かれて分裂、天正16年(1588年)5月には相馬義胤が田村領の三春に侵入、これは親相馬派の手引きがあったと考えられています。

しかし、相馬義胤は伊達派の田村家家臣たちの反撃を受け船引まで退却、すでに米沢城を出陣していた伊達政宗は相馬方諸城の小手森城を攻め落とし、義胤が籠る船引城を包囲します。

その後相馬義胤は伊達軍の囲みを突破して退却しますが田村領三春は完全に伊達氏の支配下になり、伊達政宗は相馬領宇多郡への侵攻を活発化させます。
そして天正17年(1589年)になると宇多郡の相馬氏拠点はほとんど伊達氏に奪い取られてしまいます、このとき相馬義胤は田村領への侵攻を再三行っていますがいずれも失敗しています。

こうして奥州の覇者として君臨する伊達政宗でしたが、中央では豊臣秀吉が天下統一の総仕上げを行っている最中であり、相馬氏の命運は豊臣氏と伊達氏の関係に左右されることになります。



天正18年(1590年)5月伊達軍が宇多郡中村城へ攻め寄せます。このときすでに伊達政宗は小田原攻めの豊臣秀吉のもとに向かっており、政宗は出発前に中村攻めを指示していたと考えられます。

この戦いでは相馬義胤の弟相馬隆胤が伊達軍を迎え撃つべく出陣しますが隆胤は戦死、次男の討ち死に報せを聞いた義胤の父相馬盛胤が全軍に退却を命じます。そして伊達軍は盛胤に降伏を勧めます。

降伏勧告を受けた相馬盛胤は相馬義胤のもとへ向かい降伏するか否かの軍議を開きますが、義胤は徹底抗戦を主張、盛胤も討ち死にを覚悟します。

ところが、豊臣秀吉により私戦禁止の触れが出されたことにより戦いは休戦、相馬氏は滅亡の淵を脱します。そして相馬義胤も小田原の秀吉の許へ参陣します。
こうして長い間激闘を繰り広げた両氏は、互いに豊臣政権に組み込まれたため、戦いに終止符が打たれます。

その後奥州仕置にて相馬氏は宇多・行方・標葉の3郡の内に48,000石の知行安堵となり、文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役では相馬義胤は動員令に応じて肥前名護屋に出陣しています。
しかし慶長5年(1600年)豊臣秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成と懇意だったため義胤は中立の立場をとってしまいます。

この行動によって相馬氏は、慶長7年(1602年)の戦後仕置にて徳川家康より佐竹氏とともに秋田へ改易が命じられてしまいます。
これは当時相馬氏は佐竹氏の与力大名だったためであり、この仕置に相馬義胤は嫡男相馬利胤を江戸へ弁明に向かわせることにより改易を撤回、相馬氏は所領安堵になります。

その後慶長17年(1612年)に相馬義胤は家督を嫡男相馬利胤に譲り隠居しますが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣のときには利胤が病に倒れたため義胤が代わりに出陣しています。

そして寛永2年(1625年)自身に先立って相馬利胤が病没すると、孫であり2代目相馬中村藩主相馬義胤の後見役となり、寛永12年(1635年)7月には、義胤は孫の相馬義胤を伴って江戸幕府3代将軍徳川家光に謁見しています。
その後義胤は寛永12年(1635年)11月16日に死去、享年88歳でした。



こうして相馬氏は戦国期の伊達氏との争いから、江戸時代も近世大名として生き抜き、鎌倉時代よりほぼ同じ支配地域を明治時代まで存続させていくのでした。

(寄稿)kawai

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