相馬盛胤の解説~伊達氏と争い戦国を生き抜いた奥州相馬氏

相馬盛胤




相馬氏とは

相馬氏の出自は伝承によっていくつか分かれており、共通する特徴としては桓武平氏である平将門の子孫を称しています。
しかし、このような系図は近世になって成立したもので真意は定かではありません。
また、系図が作られた背景としては東国武士団にある将門肯定感の影響があったと考えられています。


相馬盛胤相馬義胤親子を輩出した奥州相馬氏(中村相馬氏)は、鎌倉時代に相馬重胤が源頼朝から拝領された陸奥の行方郡に移り住んだのが始まりで、これにより相馬氏は元々千葉氏を出自とした下総相馬氏から奥州相馬氏へと分かれます。

相馬盛胤とは

相馬盛胤(そうま-もりたね)は奥州相馬氏の14代当主相馬顕胤の嫡男として生まれます。生年は享禄2年(1529年)と言われており、母は陸奥の伊達稙宗の娘、妻は伊達氏の一族である懸田義宗の娘です。

上記のように相馬氏と伊達氏は血縁関係を結ぶ間柄でした。しかし両氏は相馬顕胤・盛胤・義胤と伊達晴宗・輝宗・政宗の3代で死闘を演じることになり、その要因となったのが天文11年(1542年)に起こった伊達稙宗・晴宗親子の争い「天文の乱」でした。

この戦いで相馬盛胤の父相馬顕胤は伊達稙宗につき伊達晴宗と争いますが、天文17年(1548年)に両者の和睦は成立、稙宗は隠居し晴宗が伊達氏の家督を相続します。
そして相馬氏では天文18年(1549年)に顕胤が死去、相馬盛胤が家督を相続します。


その後奥州の勢力図は一変、会津では蘆名氏、出羽では最上氏が勢力を拡大し、相馬氏と領地を接する陸奥岩城氏の背後には常陸の佐竹氏の力が及ぶことになります。

このような情勢の中、奥州の有力大名たちは互いに縁組を行い自家の存続を図ります。相馬氏では天文18年に陸奥田村氏当主田村清顕に相馬盛胤の妹を嫁がせており、標葉郡内の南津島村・葛尾村・岩井沢村・古道村を妹の化粧料として田村氏に渡しています。

天文22年(1553年)、相馬盛胤の妻の実家で天文の乱でともに伊達晴宗と戦った懸田氏が晴宗に叛いて滅ぼされます。このとき生き残った懸田義宗の子息たちが相馬氏を頼って逃れてきており、伊達氏との間には天文の乱終結後も緊張状態が続いていました。
そして伊達氏では永禄8年(1565年)晴宗が隠居し嫡男伊達輝宗が家督を相続します。

その後も相馬氏と伊達氏は、奥州の諸大名や隣接する国人領主たちの争いに互いに関与しながら対立しており、永禄11年(1568年)には相馬盛胤は伊達輝宗と合戦し敗北、元亀元年(1570年)には伊達稙宗死後に隠居領の所有権で揉めていた丸森城を盛胤が落城、そして同年には伊達氏重臣の中野宗時らが相馬領に逃げ込む事件が起こっています。

このような攻防の中、天正4年(1576年)5月伊達輝宗は居城米沢城を出陣。この出馬は伊達氏の家臣が相馬盛胤と内通したとの噂が流れたためであり、盛胤との決戦を覚悟したものと考えられています。


その後戦いは両軍ともに互いの領地へ攻め込むなど激化、同年秋には両家と関係が深い田村清顕が和睦を勧めますが失敗、翌天正5年(1577年)には蘆名氏当主蘆名盛氏が仲介に入りますがこれも決裂しています。しかし、天正6年(1578年)に越後の上杉謙信が急死したことにより家督争いが勃発すると、両氏は休戦状態になります。

そして相馬盛胤は、同年に家督を嫡男相馬義胤に譲り隠居します。その後盛胤は三男相馬郷胤の後見や次男相馬隆胤の後見となり、引き続き息子たちとともに伊達氏と争い慶長6年(1601年)に73歳で死去します。

(寄稿)kawai

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