三浦義澄と三浦義村とは~三浦半島にある三浦義村の墓


スポンサーリンク
スポンサーリンク

三浦義村(みうら-よしむら)は、相模・三浦郡矢部郷の領主・三浦義澄(みうら-よしづみ)の次男として生まれたが生年は不詳。
母は正室・伊東祐親の娘と考えられる。
兄の三浦友澄が承久の乱にて討死したため、三浦義村が三浦家の嫡子とされた。

1180年に源頼朝石橋山の戦いで挙兵した際には、当初から父・三浦義澄は協力姿勢を示し、三浦半島から三浦義村も叔父・三浦義明らと加勢に向かったと考えられる。
しかし、悪天候による酒匂川の増水などで遅延し、源頼朝が敗れたことから、本拠地・衣笠城に退却したあと衣笠城合戦(衣笠城の戦い)で、畠山重忠と戦った。
この衣笠城の戦いでは、三浦義明が討死している。享年89。
三浦義澄や三浦義村ら一族は、一旦「安房」に舟で逃れた。

 スポンサーリンク


房総に逃げていた源頼朝が再び蜂起すると、畠山重忠らも味方したため、三浦義澄や三浦義村らも従って鎌倉に入った。

なお、三浦義村の母の父・伊東祐親が捕らえらると、三浦家がその身を預かった。
源頼朝は伊東祐親を許すが、伊東祐親は自分の娘と源頼朝の間に出来た子を殺害したことを恥じて、自害している。

父・三浦義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと源頼朝の重臣に抜擢され、三浦義澄と三浦義村は、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦い、奥州合戦などでも戦功を挙げた。

1199年、源頼朝が死去すると、鎌倉幕府2代将軍・源頼家を補佐する「十三人の合議制」に三浦義澄の名がある。
1200年、梶原景時の変では、梶原景時の鎌倉追放に加担したが、梶原一族が討たれた3日後の1200年1月23日に、三浦義澄が病没。享年74。
三浦義村が三浦家の家督を継いだ。
三浦義村の正室は、一条忠頼の娘とも、土肥遠平の娘ともある。
また、娘の一人は、大江広元の4男・毛利季光の正室にもなっている。

三浦義村は、1205年、畠山重忠の乱では、その討伐に参陣。
その後、無実の畠山重忠を陥れたとした稲毛重成と榛谷重朝を鎌倉の経師谷で殺害した。

1213年、侍所所司で従兄弟であった和田義盛と執権・北条家の打倒を試みる。
しかし、直前で和田義盛を裏切り、執権・北条義時に謀反を告げたため、和田義盛は和田合戦の末に敗れた。

1218年、三浦義村は侍所所司になる。

1219年1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が公暁(源頼家の子)に暗殺される。
この時、公暁は自らが将軍に就任しようと考え、三浦義村に迎えにくるようにと打診。
そして、公暁が鎌倉の三浦義村の屋敷に向かい、塀を乗り越えようとした所を殺害されている。
この公暁討伐により、三浦義村は駿河守を任官した。

1221年、承久の乱では、後鳥羽上皇の近臣となっていた弟・三浦胤義を通じて、執権・北条義時追討を命じられたが、三浦義村は北条義時に通報。
そのため、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の討伐軍を発し、三浦義村も京へと入ると、弟・三浦胤義は攻められて自刃している。

1224年、執権・北条義時が病死した際には、北条義時の後妻(継室)・伊賀の方が、自分の子・北条政村を執権に据えようとした「伊賀氏の変」が起こる。
三浦義村はこの陰謀に協力しようとしたが、尼将軍・北条政子が単身で三浦義村の屋敷に赴いて説得したため断念した。

1225年の夏、大江広元、北条政子と相次いで死去すると、12月に執権・北条泰時の元「評定衆」が設置され、三浦義村も加わっている。
この頃、鎌倉幕府での地位としては、執権・北条家に次ぐ地位が三浦家であり、1232年の御成敗式目制定にも署名している。

和田義盛、梶原景時、畠山重忠、比企能員が滅んだ際には、いずれも討伐側にいた三浦義村であり「権謀家」としては京の貴族にまで知れ渡っていた。

1239年12月5日、三浦義村は死去。
三浦一族の史跡が点在する横須賀市大矢部には、三浦義村を祀る近殿神社がある。

家督は三浦泰村が継いだが、のち宝治合戦で執権・北条家との武力衝突に至っている。

三浦義村の墓

三浦半島の金田漁港近くにある三浦義村の墓をお参りさせて頂きました。
下記の階段を上がって行きます。

三浦義村の墓

すると最初の段上に「しげみ」と案内板があります。

三浦義村の墓

上記写真のとおり、繁みに埋もれるような形で、裏っかわに下記の墓がありました。

三浦義村の墓

でも、墓にしては形がかなりヘンです。
あとで調べて分かったのですが、この三浦義村の墓は、1923年(大正12年)の関東大震災で、ここから崖下の海へと転落してしまったそうで、破損した残石を積み上げなおしたとの事です。
そのため、ヘンな形をしているのですが、三浦義村の旧墓として保存されています。

更に次なる階段を登ったところには、その後、有志によって建てられた新墓(供養碑)があります。

三浦義村の墓

さて、三浦義村の墓がある場所ですが、下記の地図ポイント地点が旧墓がある場所となります。

新墓には更に西側にある階段をもう1つ登ってください。
駐車場は県道の反対側にある金田漁港の駐車場を利用させて頂きました。

おまけ「鎌倉」の三浦一族の墓

三浦一族の墓は、鎌倉にもあります。
大江広元の墓・島津忠久の墓・毛利季光の墓がある入口からちょっと入ったところです。

鎌倉の三浦一族の墓

お塔婆には「三浦若狭守義村外一族」と記載されています。
鎌倉の三浦一族の墓は、下記の地図をご参照願います。
まさに、ポイント地点の崖に、三浦一族の墓があります。

鎌倉の墓は下記のこちらのサイトもご参照願います。

土肥実平と土肥遠平(小早川遠平)~湯河原・城願寺の土肥一族の墓
和田合戦~経緯と戦闘詳細【和田義盛の乱】
新井城(荒井城)と三浦道寸の墓~三浦半島、三浦氏・三浦水軍の拠点
和田義盛の居城「和田城」と三浦氏の本拠地「三崎城」
城ケ島~それは三浦半島の先端にある夢膨らむ島

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 山手殿は宇多頼忠の娘という説が有力だが、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説もあり、良くわかってい…
  2. 奈多夫人(なだふじん)は大友義鎮(大友宗麟)の継室です。奈多城主でもある八幡奈多宮の大宮司・奈多…
  3.  1547年?に誕生した「おね」は、尾張国の杉原定利の娘(次女)で、母は朝日殿。 生まれてす…

人気の戦国武将

  1. 松山城(まつやまじょう)は、伊予(愛媛)の松山にある標高132m、比高約90mの連郭式平山城で、津山…
  2. 南渓瑞聞(なんけい-ずいもん)とは、井伊谷城主・井伊直平の次男である。生年は不明。戦国初…
  3. 実際の山本勘助武田家は滅んだ大名のため、武田家に関する資料は多く残されていない。武田氏の…
 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信

ページ上部へ戻る