三浦義村の解説~裏切に裏切を重ねた最大勢力三浦氏と三浦義村の墓も

三浦義村とは

三浦義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の武将で、1168年に生まれました。
父は、衣笠城主・三浦義澄で、母は伊東祐親の娘になります。
兄弟には、三戸友澄、三浦重澄、三浦胤義などがいます。


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1182年8月11日、源頼朝の正室・北条政子の安産祈願のため、安房・東條庤に派遣された使者として、三浦義村の名・三浦平六が見受けられます。

三浦義村の妻は、一条忠頼の娘、土肥遠平の娘などです。
子供はたくさんおり、三浦朝村、三浦泰村、三浦長村、三浦光村、三浦重村、三浦家村、三浦資村、三浦胤村、三浦重時、僧侶になった良賢、矢部禅尼、土岐光定の妻、毛利季光(大江広元の4男)の妻、千葉秀胤の妻など・・。

1190年、源頼朝が上洛した際に、父と共に随行すると右兵衛尉に任じられ、のちに左衛門尉になりました。

源頼朝が死去したあと、梶原景時の変では、和田義盛安達盛長と相談し、有力御家人66人の連署にも記名するなど、梶原景時の鎌倉追放にて、三浦義村が中心的な役割を果たしています。
その3日後、父・三浦義澄が死去すると、最大勢力とも言える三浦一族の棟梁として、北条義時との協力体制を取ります。
1205年、畠山重忠の乱では、二俣川の戦いの直後、無実の畠山重忠を陥れたとして、稲毛重成と榛谷重朝を鎌倉の経師谷で殺害しました。


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1213年、侍所所司で従兄弟であった和田義盛と執権・北条家の打倒を試みます。
和田義盛に味方した三浦一族は打倒北条の決起を行いましたが、鎌倉で和田合戦になると、突如、三浦義村は、北条義時に寝返りました。
この裏切により、和田義盛らは滅亡したため「三浦の犬は友をくらう」とも噂されています。

1218年、三浦義村は侍所所司に就任。
1219年1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝公暁(源頼家の子)に暗殺されます。
この時、公暁は自らが将軍に就任しようと考え、三浦義村に迎えにくるようにと打診。
<注釈> 公暁の乳母は、三浦義村の妻であった (父・三浦義澄の娘が公暁を産んでいた可能性もある)
しかし、三浦義村は北条義時に報告しており、鎌倉の三浦義村の屋敷に向かい、塀を乗り越えようとした公暁を、殺害しました。
この公暁討伐により、三浦義村は駿河守を任官しています。


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1221年、承久の乱では、後鳥羽上皇に味方した兄・三戸友澄や弟・三浦胤義を通じて、執権・北条義時追討を命じられますが従わず、三浦義村は北条義時に通報。
鎌倉幕府の討伐軍として上洛し、同じ一族の三浦胤義、津久井高重らを討ちました。
また、兄の三浦友澄も、承久の乱にて討死しており、三浦党における三浦義村の地位も、盤石となったようです。

1224年、執権・北条義時が病死した際には、北条義時の後妻(継室)・伊賀の方が、自分の子・北条政村を執権に据えようとした「伊賀氏の変」が起こります。
三浦義村はこの陰謀に協力しようとしたが、尼将軍・北条政子が単身で三浦義村の屋敷に赴いて説得したため断念しました。

1225年の夏、大江広元、北条政子と相次いで死去すると、12月に執権・北条泰時の元「評定衆」が設置され、三浦義村も加わっています。
この頃、鎌倉幕府での地位としては、執権・北条家に次ぐ地位が三浦家であり、1232年の御成敗式目制定にも署名しました。

和田義盛、梶原景時、畠山重忠、比企能員が滅んだ際には、いずれも討伐側にいた三浦義村であり「権謀家」としては京の貴族にまで知れ渡っていたようです。


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1239年12月5日、三浦義村は死去。
三浦一族の史跡が点在する横須賀市大矢部には、三浦義村を祀る近殿神社があります。

家督は三浦泰村が継いだが、のち宝治合戦で執権・北条家との武力衝突に至っています。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、三浦義村を俳優の山本耕史さんが演じられます。
また、三浦義澄のキャストは、佐藤B作さんです。

三浦義村の墓

三浦半島の金田漁港近くにある三浦義村の墓をお参りさせて頂きました。
下記の階段を上がって行きます。

三浦義村の墓

すると最初の段上に「しげみ」と案内板があります。

三浦義村の墓

上記写真のとおり、繁みに埋もれるような形で、裏っかわに下記の墓がありました。

三浦義村の墓

でも、墓にしては形がかなりヘンです。
あとで調べて分かったのですが、この三浦義村の墓は、1923年(大正12年)の関東大震災で、ここから崖下の海へと転落してしまったそうで、破損した残石を積み上げなおしたとの事です。
そのため、ヘンな形をしているのですが、三浦義村の旧墓として保存されています。

更に次なる階段を登ったところには、その後、有志によって建てられた新墓(供養碑)があります。

三浦義村の墓

さて、三浦義村の墓がある場所ですが、下記の地図ポイント地点が旧墓がある場所となります。

新墓には更に西側にある階段をもう1つ登ってください。
駐車場は県道の反対側にある金田漁港の駐車場を利用させて頂きました。

おまけ「鎌倉」の三浦一族の墓

三浦一族の墓は、鎌倉にもあります。
大江広元の墓・島津忠久の墓・毛利季光の墓がある入口からちょっと入ったところです。

鎌倉の三浦一族の墓

お塔婆には「三浦若狭守義村外一族」と記載されています。
鎌倉の三浦一族の墓は、下記の地図をご参照願います。
まさに、ポイント地点の崖に、三浦一族の墓があります。

鎌倉の墓はこちらのサイトもご参照願います。

土肥実平と土肥遠平(小早川遠平)~湯河原・城願寺の土肥一族の墓
和田合戦~経緯と戦闘詳細【和田義盛の乱】
三浦義澄のちょこっと解説~最初から源頼朝を助けた最大勢力(鎌倉殿の13人)
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清雲寺の三浦氏三代の廟所・満昌寺の三浦義明廟所・薬王寺旧跡の三浦義澄公墳墓・腹切り松公園(横須賀市衣笠)

コメント

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  1. 通りすがり

    記事中、「三浦義村の正室は、一条忠頼の娘とも、土肥遠平の娘ともある。」と記載されています。これはWikipediaをご参考にしたものと思われますが、三浦義村の正室が一条忠頼の娘との珍説は、同記事の参考文献の鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで―』新人物往来社 2007年にしか掲載されていません。この本でもその根拠は(深堀系図)と記載されていますが、深堀氏関係の資料を丹念に調べても、一条忠頼のことを記載した「深堀系図」なるものは発見できません。
     当時の感覚では、三浦義村は、一条忠頼に比べれば、家の格が低すぎますし、地理的に遠すぎて結びつくメリットも見当たりません。
     鈴木かほる氏の安易な記載ないしはデマであると考えられますので、Wikipediaには(要一次資料出展)と私が付言しておきました。信じるに足りる説ではありません。

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