北条泰時とは~御成敗式目を定めた北条氏中興の祖~

北条泰時


北条泰時(ほうじょう-やすとき)は、鎌倉時代の寿永2年(1183年)に2代執権・北条義時と側室である阿波局(あわのつぼね)の長男(庶長子)として生まれました。
泰時は幼名を金剛と言い、少年時代については以下のような逸話があります。
格下の御家人が自分とすれ違っても下馬しない非礼を働いて源頼朝に叱責をされた時、10歳だった泰時は怒るどころか相手を庇い、頼朝に賞賛されたと『吾妻鑑』に記されています。

この逸話からも分かるように信頼できる外戚として頼朝は泰時を寵愛し、彼が建久5年(1194年)2月2日、13歳で元服した時には自らが烏帽子親となって頼時と名乗らせたほどでした。
この時、三浦義村の娘(のちの矢部禅尼)との婚約が決められ、建仁2年(1202年)には彼女を妻とし、長男の時氏を儲けています。


なお、頼時から泰時に改名した時期については不明ですが、『吾妻鑑』の建仁元年(1201年)の記述では既に泰時となっています。
謎が残る改名をした泰時ですが、名実ともに北条の一員としてデビューした彼は政治に戦いにと奔走していきます。

建仁3年(1203年)には比企能員の変に参戦し、2代将軍・頼家の外戚として権勢を誇った比企氏を倒し、建暦元年(1211年)には修理亮に補任します。
その翌年、異母弟(正室の生んだ嫡子でもあった)の朝時が3代将軍・実朝の不興を買って失脚した事、更に建暦3年(1213年)の和田合戦和田義盛を滅ぼす勲功を挙げて陸奥遠田郡(宮城県)の地頭職を賜った事など、泰時は徐々に力を得ていきました。
どの時期かは不明ですが、泰時は矢部禅尼と離縁しており、建暦2年(1212年)に後妻との間に次男の時実をもうけています。

健保6年(1218年)には侍所別当、承久元年(1219年)には従五位上、駿河守の官位を得るなど地位を高めていた泰時でしたが、2年後に危機が訪れます。
後鳥羽上皇による承久の乱が勃発したのです。
泰時は朝廷と対立する事で悩みますが、父義時の教えを受けて朝廷軍を撃破、新設された六波羅探題北方として就任しました。

貞応3年(1224年)、義時の死去に伴って後継者争いが起こりますが、泰時は伯母である北条政子の助けを得て継母の伊賀の方や異母弟・政村達を抑え、3代執権に就任します。
翌年に大江広元と政子を失う悲劇に見舞われつつも、泰時は従来の専制的な体制から合議政治に切り替え、嘉禄2年(1226年)に京都から藤原頼経を迎えて征夷大将軍に就けるなど、体制の刷新を図りました。

6年後の貞永元年(1332年)には指導理念の必要性や、新任の地頭に関する問題、戦乱や飢饉から来る社会情勢の悪化を解決するため、泰時は『道理』すなわち武士社会の慣習や道徳を盛り込んだ法典・御成敗式目(貞永式目)を完成させます。
一方で泰時の周囲では不幸が絶えず、嘉禄3年(1227年)には時実が殺され、寛喜2年(1230年)に時氏が病死、三浦安村の妻となっていた娘と彼女が生んだ孫にまでも先立たれるなど、一個人としての泰時は極めて不幸な人生を歩んだ人物でもあったのです。

それに追い討ちをかけるように問題が立て続けに起こり、寛喜の飢饉(1230~1231)や、嘉禎元年(1235年)に起きた、延暦寺を巻き込んだ石清水宮と興福寺の抗争を強権で鎮圧、仁治3年(1242年)に皇位継承に介入して後嵯峨天皇を即位させた事件など、泰時は激務に追われます。
そして同年の6月15日、60歳の生涯を閉じたのでした。

泰時は伯母や父と同様に北条氏のためには苛烈な方法を辞さず、朝廷に対しても承久の乱で見られたように容赦ない厳しさであったため、その死も後鳥羽上皇の怨念によるものとされるなど、批判を受けました。
しかし、彼の政治は善政と見なされ、武士政権を嫌っていたはずの北畠親房でさえ、『神皇正統記』で泰時の治世が優れていたことを褒め、反対に後鳥羽上皇など皇室の不手際を糾弾したほどです。


実際、泰時は人情と仁慈に富む人物でもあり、冒頭で述べた御家人を庇った逸話だけでなく、訴訟で負けた武士をも見捨てず親身に接し、飢饉に際しては免税と施しで民を救いました。
鎌倉の大仏の建立も時期的に支援したものと推測できます、
また、主君・頼家が真面目に政治を行わない時は厳しく諌め、義時が亡くなった時には遺領を他の兄弟姉妹に与えて自分は僅かしか受け取らないなど、弱者を救済する一方で指導者層の驕りを戒める清廉な指導者・泰時は、まさしく北条氏中興の祖だったのです。

(寄稿)太田

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