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土肥実平・土肥遠平(小早川遠平)とは
城願寺(じょうがんじ)は、土肥実平(どひ さねひら)が創建したされる曹洞宗の寺院で、神奈川県の湯河原温泉にあります。
この土肥実平(土肥次郎実平)は、桓武平氏良文流の有力豪族・中村党、中村宗平の次男で土肥郷を本拠としたため、土肥氏の祖とされ、早川庄も納めたため、小早川氏の祖ともされます。
1176年10月、大庭平太景信(大庭景信)が、源頼朝のために、伊豆・奥野にて巻狩りを催した際に、波多野義景、大庭景親、海老名弘綱、土肥實平(土肥実平)が参加しているのが見受けられます。
このとき、中村宗平の娘が嫁いだ、伊東祐親の嫡男・河津祐泰が、暗殺されており、土肥実平が遺児らを、同じ中村党の曾我祐信に、引き取らせた模様です。
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1180年、源頼朝が韮山にて挙兵すると、嫡男・土肥遠平(小早川遠平)らは中村党を率いて参じた為、土肥氏は源頼朝から信頼されます。
下記は左が土肥實平で、右が土肥遠平の座像(参考元:備後・米山寺)
源頼朝は北条時政らと山木兼隆を討ったあと、土肥実平の道案内で日金山を越えて土肥郷に入りました。
この時、従った武将は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土肥遠平(小早川遠平)、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らとなります。
そして、土肥実平の屋敷にて作戦を練り、三浦半島にいた三浦義澄、和田義盛ら三浦一族との合流を試みますが、大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親ら平家の討伐軍と石橋山の戦いとなりました。
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石橋山で敗れた源頼朝に従った7~8騎には、土肥実平も加わっていたとされます。
そして、自害を覚悟した源頼朝に、自害の作法・故実を土肥実平が教えて供され、また、源頼朝が逃亡するにおいては、供をしたいと言う加藤景員や宇佐美祐茂に対して、敵に見つからないよう、バラバラに逃げるのが得策だと説得したと言います。
大木の洞(土肥の大杉)や、しとどの窟に隠れて、梶原景時に発見された際には見逃してもらったあと、源頼朝は、真鶴から土肥実平が用意した船で房総半島へと脱出し、仁右衛門島に隠れました。
なお、土肥遠平と新開実重は、伊豆権現(伊豆山神社)に向かい、北条政子と大姫らに「頼朝公は無事」だと知らせる役目を果たしたともされます。
その後、大庭景親らを破るなど、土肥実平と土肥遠平(小早川遠平)は源頼朝に協力を続け、富士川の戦い、常陸の志田義広討伐などにて活躍します。
そして、奥州から源頼朝の陣を訪れた源義経を取り次いだのも土肥実平とされ、梶原景時を源頼朝に仲介したのも土肥実平でした。
その土肥実平の屋敷は、現在の城願寺の付近にあったと伝わります。
「しとどの窟」に食糧を運んだのは、土肥実平の妻・土肥の女房であったと言われています。
城願寺の背後の山には土肥城址があります。
下記は成願寺の山門です。
1184年1月、源義仲の討伐に従軍した土肥実平は宇治川の戦いを制し、大江山にて京の入口を守備しました。
一ノ谷の戦いでは源義経に従って戦い、三草山の戦いには、源氏軍の10000のうち、土肥実平が7000騎を預かり、一の谷の西側から進軍しています。
その功績により、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護職)に任ぜら、梶原景時と共に源範頼の進軍を支援し、西国支配を任されました。
1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させると、土肥実平は長門と周防の惣追捕使として長府に屋敷をを構えています。
また、嫡男の土肥遠平(どひ-とおひら)は安芸・沼田荘などの地頭に任命され、平賀義信の子・景平を養子に迎えています。
この養子は小早川景平と称し、沼田荘を相続させると、相模の土肥と早川庄には嫡男・土肥維平を残して土肥宗家と本領を相続させています。
ちなみに、土肥遠平(小早川遠平)の正室は、万劫御前(伊東祐親の娘、工藤祐経の前妻)です。
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その後、土肥実平は、1189年の奥州合戦にも参陣し、1190年に源頼朝が上洛したには際、右近衛大将拝賀の随兵7人に選ばれています。
なお、1191年7月18日に、厩の上棟奉行をした記録を最後に、土肥実平の名は史料から看られなくなり、沼田小早川家系図では、1191年11月25日死去したと記載されています。
ただし、死期には諸説あり、1237年9月5日に死去したとする説もありますので、源頼朝と源義経の対立影響を受けて失脚していた可能性も捨てきれません。
嫡男・土肥遠平の方は、1213年の和田合戦にて、血縁関係の有った和田義盛に味方します。
この時までには土肥遠平は、家督を嫡男・土肥維平(どひ-これひら)に譲っていたようで、敗れた土肥維平は捕縛されて、1213年9月に処刑されてしまいました。
なお、土肥遠平はこの戦いに無関係を貫き通し、土肥郷と沼田荘を守り通しています。
そして、土肥遠平は安芸・沼田荘に下向すると、小早川遠平と改名し、1237年9月5日に死去しました。
墓所は小早川隆景など、小早川家歴代の墓所がある米山寺です。
下記写真は広島・米山寺にある土肥實平の墓(土肥実平の墓)です。
下記は同じく米山寺にある土肥遠平(小早川遠平)の墓。
また、妻・天窓妙仏尼(寺伝では源頼朝の娘)を弔うため、棲真寺(広島県三原市大和町平坂)を父・土肥実平と共に創建したとあります。
湯河原の城願寺
湯河原の城願寺の近くに土肥実平の屋敷があったとされますが、恐らくはJR東海道本線の線路の場所あたりかな?と言う感じをうけます。
下記は城願寺の境内にある樹齢800年の「びゃくしん」で、文部省の天然記念物に指定されています。
下記は源頼朝が腰かけたと伝わる石です。
本堂の左手に進むと、土肥一族の墓があります。
土肥次郎実平(土肥實平)の墓や、土肥一族の墓所には、合計66基もの墓石があると言います。
伝承では中央が土肥実平の墓、左が土肥実平の妻の墓、右が土肥遠平と妻の墓とされています。
七騎堂は源頼朝に従った七騎像の安置場所となっています。
城願寺へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が境内駐車場となります。
城願寺は湯河原駅から歩いても5分くらいですので、是非お参りなさって頂けますと幸いです。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、土肥実平を俳優の阿南健治さんが演じられます。
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