熊谷直実の解説~仁勇の心を持って源平合戦を戦った坂東武者~

熊谷直実

熊谷直実とは

熊谷直実(くまがい‐なおざね)は平安時代末期の永治元年(1141年)、桓武平氏の血をひく熊谷直貞の次男として生まれました。
祖父・平盛方は平忠盛を襲った罪で処刑され、父の直貞も幼い子を残して夭折したと言われ、直実は幼少期から乱世のさなかを生きる事を余儀なくされていました。

幼名を弓矢丸と言った幼少期の直実は、母方の伯父(おばの夫)で武蔵国大郷郡(埼玉県)の武将である久下直光のもとで養われ、その所有地であった熊谷を与えられます。
保元の乱(1156年)が起こると源義朝、平治の乱(1159年)では義朝の長男である源義平の配下となり、直実少年は源氏方の若武者として戦っていました。


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しかし、伯父の代理として上京した直実は久下氏の代官として侮辱されたのに怒り、その鬱憤を晴らそうと平知盛の部下になってしまいます。
そのことで直光と直実の間には、長きにわたる所領争いが勃発する事となるのです。

石橋山の戦いまでは平家に与する大庭景親の配下として戦っていた直実でしたが、それ以降は源氏側に舞い戻り、佐竹氏との戦いで活躍するなどして源頼朝に称えられ、熊谷の支配権を認められます。
源頼朝への仕官が叶った直実が歴史に名を残したのが、寿永3年(1184年)に平家を討った一ノ谷の戦いです。

平敦盛を討ち取る

源義経に従って奇襲作戦(鵯越の落とし)を行った直実は、平家の武者に包囲されて死にかける一幕もありましたが、息子の直家と郎党一人で平家の陣への一番乗りを果たします。
『平家物語』によると、直実はこの一ノ谷で敵を探していた時に平家の公達・平敦盛と戦ったとされています。

背を向ける敦盛を呼び戻して一騎打ちを仕掛け、持ち前の大力で組み伏せた直実は、彼が先程の戦いで傷を負った我が子・直家と同じ年の少年であることを知ります。
我が子が僅かな怪我をしても親である自分は辛いのに、相手を殺せばその親は如何ばかり嘆き悲しむ事だろうと思いやって見逃そうとしました。

しかし、敦盛は早く首を討つようにと訴え、背後には源氏軍が控えていて助ける事も出来ないのを悟った直実は、
「同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕り候はめ(同じ事ならば、私の手にかけ申しあげ、死後の供養を致しましょうぞ)」
と述べ、前後不覚に陥りつつも涙を流して敦盛を斬首したのでした。『平家物語』は、後述する直実の出家はこの出来事を契機として、ますます強まったと述べています。

所領争いと出家遁世

平家を壇ノ浦で滅ぼしてから2年後の文治3年(1187年)、頼朝の配下として仕官していた直実はとある理由から騒動を起こしてしまいました。
それは、鶴岡八幡宮の放生会開催される流鏑馬での的立役を任命された直実は、それを不服として拒絶します。その理由は、騎手ではなく徒歩で仕事をする役目を押し付けられたと言うものです。

再三に渡る説得も頑として聞かない直実に激怒した頼朝は、彼の所領を削減してしまいました。なお頼朝に仕えた有力武将には、

・判官びいきの対象とされた義経との確執で卑劣漢と嫌悪された梶原景時
・景時とは逆に義経との仲を疑われて所領召し上げの憂き目を見た多田行綱
・豪勇が過ぎてトラブルが絶えず、長年に渡って復職を許されなかった玉井助重
・目に余る奢侈で頼朝の容赦ない怒りを被った藤原俊兼

などのように後述するように一芸に秀でていたり、忠誠心や勇気に富んでいても何かしらの重大な問題を抱えている人物が少なからずおり、直実もそうした側面を持った人物であった事が『吾妻鏡』には記されています。

更に直実に追い討ちをかけたのが、伯父である久下直光との所領争いです。
熊谷と久下の境界線を巡る裁判が建久3年(1192年)に頼朝の御前で開かれた際、力や勇気は秀でていても弁論が不得手な直実は、不利な状況に追い込まれます。
それに激怒した直実は書類を投げ捨て

「景時め、あいつが伯父・直光の肩を持ってあらかじめ有利になるように申し上げたんだろう。
だから私は、頼朝さまから質問攻めされているのだ。
どうせ相手が勝訴するなら、こんな文書はいらぬ。どうしようもない事だ」

と、裁判中に立ち上がると西の侍所へと出て行きました。
それでも直実の怒りは収まらず、自分のもとどりを斬り落として行方をくらましたため、頼朝や御家人たちは大騒ぎになります。


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その後、直実は法然のもとに弟子入りし、法力房蓮生(ほうりきぼう‐れんせい)と改名し、僧侶となりました。出家の時期ははっきりしておらず、久下氏との裁判以降とするものや、それ以前にしていたとする見解も存在します。

いずれにしても、多くの人を討ち取った者でも阿弥陀仏に帰依すれば救われると説かれた直実は、感激のあまりに号泣したと言われています。法然に入門後、諸国で多くの寺を開基することに、直実は貢献しました。
中でも法然の故郷である美作国の誕生寺(岡山県久米郡)、京都の法然寺(京都府右京区)、そして直実の故郷・熊谷の熊谷寺は著名です。

直実が熊谷の地に帰郷したのは元久元年(1204年)で、彼は後に熊谷寺となる自らの庵で念仏に明け暮れ、その3年後の建永2年(1207年)に極楽往生を予告した立札を立て、その通りに逝去したと言われます。
『吾妻鏡』では翌年に京都で往生したため、当主となっていた直家がそれを看取りに上洛したと記録されています。
墓所や供養塔は各地に存在し、熊谷寺には妻と直家、高野山には敦盛と並んで墓が設けられ、金戒光明寺(京都府)では法然の廟の傍に熊谷直実と敦盛の供養塔が造られました。

後世、熊谷直実は敦盛と戦った伝承や法然との出会いが数々の物語を産み、武勇のみならず情け深さや信仰心も兼ね備えた英雄として今も熊谷市では慕われ、銅像やキャラクターが作られるほどの人気を誇ります。
鎌倉殿の13人』でのキャスティングは現時点では不明ですが、頼朝ゆかりの有名武将でもあるため、今後に期待したい人物のひとりと言えます。

血で血を洗う源平の世を生き抜き、その後も親類同士が所領を争う醜い世を憂えて信仰に生きた直実は、愛する家族あるいは人生の途上で出会った敦盛や法然らと共に、これからも現世の栄枯盛衰を見守り続けていくのかもしれません。

参考サイト

法然寺
熊谷寺

(寄稿)太田

玉井助重とは~源頼朝の愛憎深き猛将~
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