一ノ谷の戦い(一の谷の戦い)とは 伝説的奇襲作戦!

一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代末期である1184年に、摂津国福原と須磨(兵庫県神戸市兵庫区・中央区・須磨区)で行われた、源氏平氏の合戦です。

源平合戦

時は平安時代後期。
平家にあらずんば人にあらず」
「驕る平家は久しからず」
など有名な言葉が平家物語にも残されており、歴史を知る上で非常に面白い時代です。
源平合戦とは平清盛の企みによって次期天皇の座を奪われて激怒した以仁王の呼びかけによって平家追討の勅旨が出され、それがきっかけとなって各地の武士達が打倒平氏の為に兵をあげて氏を滅ぼした戦いです。
しかし、挙兵した当事者である以仁王は早々に討ち死にして戦線離脱してしまいます。
なにわともあれ、この源平合戦で特に活躍したのが源頼朝(みなもとのよりとも)や源義経(みなもとのよしつね)ら源氏でした。
源氏が平氏を各地の合戦で連勝を続け、平清盛が1181年に病死した事により絶対的指導者を失った平氏は追い詰められます。
そしてついに1185年、壇ノ浦で平氏を滅ぼします。
その一連で出てきた言葉が有名な「驕る平家は久しからず」です。
「平家にあらずんば人にあらず」と言って威張り散らして傲慢な態度を取って来た平氏に対する嫌味を込めた言葉でもありますが、
込められた意味は「自分の地位などを頼みとして勝手な振る舞いをするものは,遠からず衰え滅ぶということ。」で、これは現代人の社会でも同じ事が言える気がしますね。
さて今回のお題の一の谷の戦いですが、壇ノ浦の戦いより以前での戦でのお話しです。

一の谷の合戦ってどんな戦い?

元暦元年2月7日(1184年3月20日)、一ノ谷の合戦が行なわれました。
それもその日は清盛逝去からちょうど3年後でした。
平宗盛率いる平家軍は「鵯越の逆落とし」で有名な源義経の奇襲攻撃によって源氏軍に大敗します。
源義経は敵を欺く奇襲攻撃に掛けて天才だっとと言われています。
後世でかの織田信長桶狭間の戦いの際のヒントにしたという諸説がある程です。
織田信長が源義経を尊敬していたという説もあります。
一ノ谷付近まで進行した源義経は、自軍の半数以上を軍監の土肥実平に託して土肥実平に海側の西城戸方面から攻めるよう指示しました。
そして源義経自身は奇襲作戦を実行する為に兵を必要最低限に絞りました。
平家軍が陣を張っている背後に回りこみ、断崖絶壁を駆け下りることを決しました。
これが俗に言う「鵯越の逆落とし」です。
源義経は奇襲を仕掛ける前に地元の猟師に聞き込みを行い、鹿がこの谷を越えることを確認しました。
「鹿が通えるのであれば、馬も通えよう」と言ったと『平家物語』に記載されています。
諸説によれば試しに馬2頭に絶壁を駆け下りさせ、1頭が無事にたどり着いた事から半分は生き残ると言う考えによって決行を判断したとも言われています。

決着

源義経が奇襲を仕掛ける少し前、土肥勢の攻撃が始まりました。
さらには東からは源義経の兄である源範頼の軍勢も平家軍に挑みました。
鉄壁の防御で交戦する平家陣営をなかなか攻め落とせずにいました。
その様子を見ていた源義経は、ここぞという絶妙のタイミングで絶壁を騎馬で駆け下りて奇襲を仕掛けました。
平家陣営のバックを取り、予期しなかった場所から現われた源氏軍に平家軍は大混乱に陥って平忠度をはじめとする多くの武将が討ち死にしました。
その中にはまだ16~17歳の少年「平敦盛」の姿もあったと伝えられています。
平敦盛を題材にした幸若舞「敦盛」を、織田信長が好んだことはよく知られています。

(寄稿)土佐武士の子孫

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