源頼政とは~武勇に秀でた源頼政の墓所を追う旅


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源頼政(みなもとのよりまさ)は、源仲政の長男として1104年に生まれました。
母は藤原友実の娘です。

清和源氏とは言え、源義朝や源頼朝らの河内源氏とは別の家系である摂津源氏となります。

平清盛に味方したため、平氏が政権を握っても、中央政界に留まることができ、1178年、75歳にして公卿の従三位に昇進し高級貴族となりました。

清和源氏としてはそれまで正四位下が最高であったため、平氏政権下で源氏の長老であった源頼政は源三位(げんざんみ)と称されています。
平清盛が源頼政を信頼し、相当破格な対応をしたと言う事です。

しかし、後白河法皇と平清盛の対立が強まって来ており、1179年11月、平清盛は福原から兵を率いて京へ入り院政を停止し、後白河法皇を幽閉すると言う、治承三年の政変と呼ばれるクーデターを起こします。
そして、1180年2月、平清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉帝と平清盛の娘・徳子との間に生まれた、3歳の安徳天皇を即位させました。

これに不満を持ったのが、皇位への望みを持っていた以仁王(後白河法皇の第三皇子、高倉宮・三条宮)です。
そして、源頼政はこの以仁王と組んで、平家打倒の挙兵を考えるようになりました。

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源頼政と以仁王は、諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかけますが、早くも計画が平家に露見してしまい、以仁王捕縛の為、検非違使を派遣しました。

これに対しては以仁王(もちひとおう)は館から、大津の園城寺(おんじょうじ)へ逃れます。
平家から園城寺への攻撃命令を受けた源頼政は、計画が知られてしまったと悟り、自ら屋敷に火を放ち、源仲綱・源兼綱ら一族を率いて園城寺へ駆けつけました。
しかし、計画に入っていた延暦寺の協力を得られず、園城寺も危険になったため、源頼政と以仁王は興福寺へと向かいます。
夜間の行軍となったため、以仁王が疲労して落馬したため、途中の宇治・平等院にて休息を取りました。

このように、挙兵するにもまだ準備不足であったところを、平家の大軍に攻め込まれたのです。

1180年5月26日、宇治川の戦い(平等院の戦い)となり宇治橋付近で戦いが始まりました。
しかし、平家勢の渡河を許したため、平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦ました。
しかし、多勢に無勢で、子の源仲綱は重傷を負い疲弊しきって平等院釣殿にて自刃。
衆寡敵せず孫の源宗綱も自害し、源兼綱は源頼政を守って壮絶な討死をしました。
源頼政の養子・源仲家や、その子の源仲光も相次いで討死し、源頼政は、もはやこれまでと念仏を唱え、渡辺唱の介錯にて自害しました。享年77歳。
源頼政も傷を負っていたとする説もあります。

以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出に成功しましたが、藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城・相楽郡光明山の鳥居にて、矢に当たって落馬したところを討ち取られたと言います。

この以仁王の挙兵は失敗に終わりましたが、令旨を受けた源頼朝や木曾義仲など、各地の源氏が挙兵することに繋がり、平氏滅亡への原動力となったのは間違いありません。

と言う事で、このページでは各地にある源頼政の墓を追いかけます。

平等院の源頼政の墓

まずは、自刃した地である宇治の平等院鳳凰堂の「源頼政の墓」です。
平等院鳳凰堂の裏手にある塔頭の1つ不動堂のすぐそばに源頼政の墓があります。

源頼政の墓

「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」と言う辞世の和歌を残して命を絶ちました。
毎年5月26日には法要「頼政忌」が執り行われているとの事です。

源頼政の墓

平等院鳳凰堂に関しては下記にて詳しくご紹介もさせて頂いております。

平等院鳳凰堂をスムーズに見学する攻略法と駐車場情報や宇治情報など

頼政塚

京都府亀岡市西つつじヶ丘の頼政塚(よりまさづか)です。
丹波・亀山城を訪問した際に立ち寄りましたが、国道9号線を走っていて「頼政塚」という名称の交差点が目に入ったのが、訪問したキッカケです。

事前調査なしに訪問したので、どんなところか想像もつかなかったのですが、最初はこの交差点の近くに石碑でもあるのか?と思いました。
しかし、予想は外れて、小高い丘の頂上にありました。
下記の地図ポイント地点の階段から登って行きます。

階段の先には小学校の校庭が見えるので、小学校に繋がっているように感じますが、階段を登ったところから右に折れる新たな階段へと繋がっています。
そして、道なりに登って行くと、展望が開けたところに出ます。
下記の場所です。

頼政塚の近く

しかし、これはどうも違う感じがいたしまして、更に上部へと繋がる道を登ってみました。
すると、頂上に出ました。

頼政塚

独立峰で、すごく展望も良い場所です。
下記の写真中央のこんもりと木々が茂っている場所は、亀山城です。

亀山城

なんでも、近くの「矢田」は、源頼政が鵺退治をした際に褒美として拝領した領地だそうで、家来が首をここに埋めたと伝わります。
江戸時代に近所の僧侶が存在を疑って塚を掘り起こしてみたところ、石棺が納められていたとも言われています。
となると、ちょっと話も違ってくるような気も致しますが・・。

頼政塚

頼政塚の見学所要時間は、階段下からで往復10分といったところです。

なお、源頼政の墓とされる場所は、他にもいくつかあります。
郎党・猪早太らが埋葬したとされる岐阜県関市の蓮華寺。
郎党・下河辺氏が祭ったと伝わる茨城県古河市の頼政神社には、源頼政の首塚伝説もあります。
兵庫県西脇市の長明寺にも源頼政の墓があります。

何年掛かるか分かりませんが、これらもライフワークとして訪問したいと考えておりますので、目標達成の暁には、このページに順次追記させて頂きます。

平清盛【謎の出自】 ~年表付~平家の棟梁の姿を追う

源頼朝と北条政子【鎌倉幕府の尼将軍と征夷大将軍】旧相模川橋脚も

 

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