北条綱成~地黄八幡と恐れられた北条家一の猛将

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北条綱成 (ほうじょうつなしげ) 戦国時代1515年~1587年

今川氏親の家臣で土方城を守った福島正成(福島兵庫正成)の嫡男で1515年生まれ。
幼名は福島勝千代と称した。
福島(くしま)は九島とも書く。
1521年、父である福島正成の武田攻め「飯田河原の戦い」で父・福島正成が武田家臣・原友胤に討たれた。
ただし別の説では討死はしておらず、今川氏輝とその弟・今川彦五郎の死後に発生した今川家の家督争い「花倉の乱」で、今川氏親の側室である福島氏を母とする今川良真(玄広恵探)を支持したが敗れ、今川義元によって福島正成は駿河を追われ、逃亡先の甲斐にて1536年武田信虎に討たれたともある。
いずれも確定的な証拠はなくよくわかっていない。


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いずれにせよ、福島氏は今川家にいられなくなり、家臣らと共に相模の北条氏綱を頼ったようだ。
しかし、北条家の侍大将・伊勢九郎(福島九郎)の子と言う説もある。
若い頃から武勇に秀で、北条氏綱に気に入られると北条氏綱の娘を妻として迎え、北条の姓を与えらるだけでなく、北条氏綱の「綱」の字ももらい「北条綱成」と改め、北条一門衆として活躍する。
その北条氏綱の娘との間に生まれたのが北条氏繁であり1536年誕生とされる。
その為、北条綱成は少なくとも1535年頃には北条家臣になっていたのだろうか?


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また、北条氏康の弟で、実子に恵まれなかった北条為昌の養子となり、北条為昌が守る相模・玉縄城に後見役として入った。
1542年に北条為昌が没したあとは正式に玉縄城主となり玉縄衆を率いる。
1546年には3000の兵で川越城を上杉勢80000の大軍から守り通した。上杉勢は北条綱成(北條綱成)の勇名を恐れ、力攻めせず兵糧攻めにしたと考えられる。

川越夜戦古戦場跡

6ヶ月に渡る籠城を耐え抜き、援軍の夜襲に応じて古河公方足利晴氏の陣を攻め、古河へ退却させている。
玉縄城の地理的条件からも、奥州の白川晴綱や下総の結城政勝と連絡を取るなど、北条氏康の名代として外交手腕も発揮している。
北条綱成の嫡男・北条氏繁と共に1564年国府台の戦い、1569年三増峠の戦いなど、北条の緒戦で活躍したが、1571年に北条氏康が病没したのち、1573年に出家して道感と号して、家督を嫡男・北条康成(後の北条氏繁)に譲った。
その後1587年に玉縄城にて71歳で没している。北条氏滅亡の1590年に先立つ、3年前であった。

北条綱成は北条家中随一の猛将として他国にも知られ、戦場において常に勇敢で、特に野戦では大将であるにも関わらずに常に先頭に立って「勝った! 勝った!」と怒号しながら真っ先に敵陣に突入したと言われる。
旗指物は朽葉色(黄色)の練の四隅にそれぞれ「八幡」と墨書きしたもので、その武勇高き北条綱成の姿は「地黄八幡」と呼ばれた。
この地黄八幡の旗指物は現在、長野市松代の真田宝物館に現存する。
1571年、北条綱成が駿河・深沢城を開城した際に城内に残されていたものだ。
武田の兵は置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、北条綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。


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しかし武田信玄は「左衛門大夫(北条綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。
あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。
旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田幸隆の子・真田源次郎(真田昌輝)に「左衛門大夫(北条綱成)の武勇にあやかるように」と旗を与えた。
のちにこの事を伝え聞いた北条綱成は「信玄の言葉で、我が恥辱は雪がれた」と悦んだとされる。

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