小山田信茂(小山田藤乙丸)~(1545年?~1582年)郡内の実力者

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 小山田信茂の幼名を藤乙丸とされ、16代・小山田有信(出羽守)の次男とする説もあるが、このページでは17代・小山田有信(弥三郎)の弟とする説を支持する。

 なお、17代・小山田有信(弥三郎)の弟の説を取ると1565年、20歳前後で家督を継いだことになる。(ただし、1538年生まれ説もあり) いずれにせよ、武田譜代家老衆250騎持ちとなった。

 1532年以降、小山田氏の居館は都留郡谷村(谷村城)にあったが、要害である岩殿山城を駿河口、対小田原北条氏の防衛拠点としていた。
 1565年?、家督を継ぐに当たって名を小山田弥三郎信茂(小山田信茂)に改めた模様だ。
 1568年頃にも戦で活躍した事が伺え、1569年の小田原攻めでは、八王子の高尾で北条氏照勢を撃破。(三増合戦のコーナーで詳細をご案内)
 この活躍などで武田軍の中でも一目を置かれる小山田信茂の立場が確立し、武田信玄から絶対的な信頼を得、「弓矢の御談合七人衆」として若輩ながらも馬場信房・山県昌景らの重臣らと軍議に列した。
 1571年、富士講振興策として富士道者の増加を図り、関税を半分に減税。
 1572年三方原の戦いでも先鋒大将を努め3500の兵を率いた。自慢の投石部隊で徳川家康軍の石川数正を挑発し撃破。投石は約200mの飛距離があったと言う。(当時鉄砲の有効射程距離は30m)武田信玄に勝鬨の音頭の発声を命じられる。


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 このような武功により小山田信茂は武田最強と評されているが、江戸時代の郡内地方では、徳川家康に勝利した三方ヶ原合戦は「タブー」とされていたようだ。

 武田信玄没後の1575年5月長篠の戦いでは3200で出陣。先鋒左翼隊長として奮戦するが武田は大敗。小山田信茂勢は討死1000人と武田軍で一番の犠牲者を出しながらも、一時は織田勢の防護柵を破るなどよく戦った。
 1576年4月16日、武田信玄の葬儀を恵林寺快川紹喜(快川国師)を大導師として執行。この葬礼で喪主・武田勝頼に続き、御影・仁科盛信、位牌・葛山信貞、四番目御剣を小山田信茂が捧持。

 武田弱体後は、越後上杉氏と武田勝頼同盟の為奔走するなど、武田の外交面での活躍も見られるが、甲斐とは他国になる諏訪と関係深い武田勝頼を必ずしも快く思っていなかったようで、穴山氏と小田山氏は武田一門衆(親戚衆)として武田信玄の時より独自性を強めて行く。

 結果的に織田勢の武田攻めでは、木曽氏の裏切りと、武田から分家した一門衆の穴山氏が織田信長に寝返り、武田滅亡への道を歩み、その要因とも言える小山田信茂の評判もよろしくないのだ。

現在も山梨県で評判が悪い

 最後の最後で武田勝頼を裏切ったとされる小山田信茂。
 母は武田信玄の姉、妻は武田勝頼の姉と、武田一族でも筆頭だった穴山信君(穴山梅雪)は武田勝頼と対立し、織田勢が武田攻めを開始すると裏切った。。
 武田信玄の娘を妻に迎えながら織田信長に寝返った木曽義昌。武田と親戚関係で、尚且つ家族を人質にも取られていた為、木曽家中の誰もが武田を裏切ることに驚いたという。
 この3人は現在も山梨県内での評判が悪い。武田側に立ってみれば完全な裏切り、しかもその裏切りもあり武田が滅亡したのだから「信玄公」と今でも慕っている地元民にとっては当たり前とも言える。
 ただ、別の見方をすると、穴山氏や小山田氏は武田と親戚ではあったが、もともとは大名と言ってもおかしくない地方勢力の持ち主で、言わば国として武田と深い同盟関係にあっとも言える。その為、武田に忠誠を誓う家臣団ではなく、武田に協力した同盟国(同盟勢力)だったと言ったほうが正しいのかもしれない。
 結果論ではあるが、小山田信茂も自ら犠牲となって、織田勢から郡内の領民を守ったとも言える。実際問題、織田の武田攻めでは、郡内の家屋は一軒も被害にあっていない。
 そう考えると、もともと武田に屈した木曽氏も含めて、独立性があったこの3人が武田を裏切ったのは、武田と一緒に滅亡するより、独自存続の道を模索したと言って良いのではと感じる。
 それを考えると、武田信玄に屈した他国衆(信濃衆)とは言え、最後まで武田勝頼に味方した真田昌幸などは、織田信長に領地安堵されるなど、うまく切り抜けている。
 穴山梅雪は武田滅亡後、織田信長から所領安堵されるが、徳川家康と共に安土城で織田信長の接待を明智光秀より受け、その後京、堺と遊覧していた際に本能寺の変が勃発。持病の痔で馬に乗れなかっ事と、持参していた多くの金品を徳川に奪われるのを恐れた為、徳川家康とは別行動を取り徒歩で駿河に戻ろうとするが、現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で土民に襲われてあえない最期を遂げた。42歳。
 木曽義昌は織田勢の先鋒となって武田勢と戦い、織田信長から木曽谷のみならず安曇・筑摩二郡を加増され、深志城(松本城)も得た。本能寺の変後には小笠原氏の復活により、所領は木曽谷だけになったが、徳川・羽柴・徳川とうまく乗り切り、徳川家康が関東に入ると下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に1万石を与えられ、移封した。
 この木曽義昌は小領主でありながら、うまく戦国を見事生き抜いたと、長野県での評判は良いが、母・娘の犠牲も忘れてはならない。

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