恵林寺「快川紹喜」甲斐武田氏の菩提寺・恵林寺・武田信玄の墓所【武田信玄の墓シリーズ】

1330年、甲斐守護の二階堂貞藤(二階堂道蘊)に招かれた夢窓国師(夢窓疎石)が恵林寺を創建。
その後、荒れましたが、武田信玄が1541年に臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興した塩山にある寺院が恵林寺です。
いまから450年をさかのぼる戦国時代、関東から中部、そして東海地方を席巻し近畿にまでその名を轟かせた甲斐の戦国大名武田信玄は、文字どおリ「名将」の名にふさわしい数々の事績、エピソードを今日に伝える乱世の代表的武将です。

「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」という有名な歌は、家臣・領民を愛する「信玄精神」発露の歌とされていますが、武田信玄は常に自分が一軍の将、一国の大守として自山白在に釆配がふれるのは、家臣、そして領民たちの力によるものとの報恩感謝の念を忘れず、善政を施したと伝えられています。
この現われが歌意となり、また領民の信玄に感謝する気持も表現されているようです。

その不世出の英雄・武田信玄も病魔には勝てず、生者必滅の摂里に従って、1573年4月12日、53歳を一期として上洛戦途次、信州・駒場の陣中で病没しました。


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武田信玄の死は3年間秘密にされ、没後4年目に信玄自ら菩提寺と定めていたこの恵林寺にて、武田勝頼を喪主としての大葬儀が執行されます。
喪主・武田勝頼に続き、御影・仁科盛信、位牌・葛山信貞、四番目御剣を小山田信茂が捧持をしました。

恵林寺

大導師をつとめた快川紹喜国師は岐阜の崇福寺の住職でしたが織田信長と意見が合わず、武田信玄が1564年に美濃から招いた参禅の師であリ、美濃では斎藤義龍明智光秀も学んだとされます。

織田信長と敵対し、甲斐に逃れていた佐々木次郎(六角義定)、三井寺の上福院、足利義昭の家臣・大和淡路守らは、1582年に織田信忠の大軍が甲斐に攻め込むと、この快川紹喜(かいせんじょうき)の恵林寺に匿まわれました。
織田信忠は、家臣の関長安(関小十郎左衛門)、津田元嘉(織田九朗次郎、津田次郎信治)、長谷川丹後(長谷川與次郎、長谷川与次可竹)、赤座永兼(赤座七左衛門)ら奉行に命じて、恵林寺に向かわせ引渡しを要求しましたが、快川紹喜国師は拒否します。
もっとも、六角義定らはとっくに逃げていたようです。
しかし、織田勢にとっては、六角義定は一度上洛を阻止された仇敵でもあり、そんなやからを匿ったして、1582年4月3日、恵林寺は織田勢に包囲され、全山がことごとく焼き打ちされました。
この時、織田勢は快川和尚ら恵林寺の僧侶や宝泉寺の雪峯、東光寺の藍田、長禅寺の高山ら児童に至るまで84名(150名とも?)を、三門楼の中に閉じ込め、火を放ちました。

恵林寺の三門

炎上する三門楼上で快川和尚は「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残したとされています。
この「安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」は非常に有名な句であり、禅を組みながら轟々と燃えさかる炎の中、少しも動ぜず潔く運命を受け入れたと言い、享年81歳とされています。
快川紹喜(かいせんじょうき)が焼かれたこの日、織田信長は台ヶ原(山梨県北巨摩郡)で富士山を眺めていました。
下記が快川国師の墓です。

快川紹喜の墓
 
織田勢の残党狩りは厳しく、3月24日には甲斐府中の立石相川左岸にて森長可の家臣・各務元正と豊前采女が、武田信友(武田信基)・武田信廉を斬首。武田勝頼を裏切った小山田信茂もこの日処刑されました。

4月5日には芋川親正(芋川正親)が一揆を起こし、信濃・飯山城を包囲。飯山城を守っていた稲葉貞通は、海津城・森長可に報告すると、稲葉重通・稲葉通明や国枝重之、また、織田信忠も団忠直を援軍として派遣し鎮圧しています。

なお、国師と言うのは朝廷から下賜された高僧につけられた尊称で、快川紹喜は1581年9月6日に「円常国師」の称号を授かっていました。すなわち天皇に仏法を説く高僧です。
朝廷の事を重んじていた明智光秀も、このとき織田勢として甲府におり、かつての師である快川紹喜に対しての悪逆非道は朝廷をも軽視した行為であり、さすがに比叡山焼き討ちとは意味が違うと、疑問を感じたことでしょう。
色々な思いが積み重なり、この快川紹喜の死から2ヶ月後の1582年6月2日、明智光秀は本能寺の変で織田信長と織田信忠を討ちました。

恵林寺

臨済宗妙心寺派の恵林寺は、鎌倉時代末期に七朝帝師とうたわれた名僧・夢窓国師によって建立された禅林で、かつては関東における関山派別格中本山といっ寺格を有し、江戸時代から明治、大正期に至るまで峡中禅窟と呼ばれる唯一の禅道場でもありました。

恵林寺

快川紹喜が焼き討ちされた三門の話にはもう1つ逸話があります。
実は、燃え盛る恵林寺三門上より飛び降りた僧らが16人いました。
名前が判明しているのは、南華玄興、淳岩玄朴、末宗瑞曷、湖南宗嶽、菊譚祖采、龍雲宗珠です。
当然、山門の下には織田の兵が槍を持って控えていたのですが、何名かは逃亡する事に成功していました。
このうち、末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)は、那須の雲巌寺に潜んでいましたが、信長の死後、徳川家康が甲斐を治めると、末宗瑞曷を呼び寄せて恵林寺を再興しました。

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上記の赤門は徳川家康が再興した時のものです。
江戸時代には、甲府城主となった柳沢吉保が厚く保護して修復も行いました。

恵林寺

歴代住職はほとんど日本史・仏教史上に名をとどめる名僧・高僧であったことから、優れた寺宝も多く、とくに歴史博物館・信玄公宝物館には武田信玄に関する文化財が常設展として年問を通じて一般公開されています。

武田信玄の公墓と武田家臣70人の供養塔

恵林寺の有料拝観で内部や裏手にある武田家臣70基の供養塔、そして武田信玄の公墓なども見学できます。

恵林寺・うぐいす張り

上記写真の渡り廊下を越えたところが、うぐいす廊下です。

恵林寺

京都二条城にある「うぐいす廊下」が有名ですが、関東にもうぐいす廊下が、この恵林寺にありました。

武田不動尊
 
恵林寺明王殿には武田不動尊と称される不動明王坐像及び二童子像が安置されています。
武田信玄が京から仏師・康清を呼んで、武田信玄自身の顔を彫刻させ、信玄自らの頭髪を焼いて彩色したものだと甲陽軍鑑には記載されています。

恵林寺・武田信玄の墓

武田信玄の墓はいくつかありますが、恵林寺の信玄公の墓の裏手には武田家臣の供養塔がずらっと並んでおり、また、足元には湧水が流れ、大変幻想的な空間となっています。

武田家臣の供養塔70基

武田家の菩提寺ですので、供養塔などは立派です。
昔に恵林寺を訪れた際には、撮影禁止だったような気がしたのですが、思いがけず、写真撮影可とありましたのでありがたく撮影させて頂きました。

柳沢吉保夫妻の墓

上記写真は、江戸時代に甲府城主となった柳沢吉保夫妻の墓です。甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔でした。

恵林寺の庭園

恵林寺の庭園は開祖・夢窓国師(夢窓疎石)の設計です。
紅葉の時はすごくきれいだと思います。

恵林寺の庭園

夢窓国師は、その後後醍醐天皇に呼ばれて、京都の天龍寺庭園も設計した高僧です。

恵林寺の有料拝観は2箇所あります。
恵林寺と境内にある信玄公宝物殿ですが、両方見ると見学所要時間は60分はみた方が良いです。
両方見学する場合はに「共通券」を購入すると100円安くなります。

行き方(アクセス)ですが、電車の場合JR塩山駅南口から西沢渓谷行のバスで恵林寺前下車ですが、1日4~5本くらいしかバスは運行されていないため不便です。
観光バスも訪れる名所ですので、恵林寺の周りにはお土産物店もいくつかあります。
駐車場は下記のポイント地点か、恵林寺の西側の道路沿いに大きな駐車場もありますので、是非訪れてみて下さい。

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