武田光和の解説~大内氏・毛利氏と戦った源氏の名門・安芸武田氏

武田光和





武田光和とは

武田光和(たけだ-みつかず)は安芸武田氏の武田元繁の息子として生まれます。生年は定かではありませんが文亀2年(1502年)と言われています。
武田光和は永正14年(1517年)10月、父武田元繫が有田中井手の戦いで戦死したことにより、安芸武田氏の家督を相続します。



その後、武田光和は父武田元繫同様に出雲の尼子氏と協力し大内氏と争いますが、まだ若年であった光和には後見として一時的に同族の若狭武田氏が補佐していたと考えられています。
本来、若狭武田氏は安芸武田氏の惣領家と言われる家柄でしたが、当時安芸武田氏は若狭武田氏より独立しており、独立後も両家は同族として連絡はとっていたと思われています。

永正15年(1518年)周防大内氏当主大内義興京都から帰国、在京中に尼子方に裏切った安芸武田氏討伐を本格化させます。
そして大永2年(1522年)3月大内氏家臣陶興房率いる大内軍が安芸へ進軍、この戦いで大内軍は安芸武田氏居城金山城(佐東銀山城・銀山城)まで攻め込みますが、武田光和は大内軍を撤退させることに成功。
そして翌大永3年(1523年)3月には後継者争いをしていた安芸厳島神社の友田氏が安芸武田氏と結び大内氏へ挙兵、この戦況に出雲尼子氏も安芸への侵攻を開始します。

しかし、その後大内軍は安芸の尼子方陣営である大野氏の調略に成功、これにより安芸武田氏と友田氏は総崩れとなり、好機とみた大内義興が自ら出陣し友田氏を降伏させてしまいます。
そして、この大内氏優勢の戦況に安芸の尼子方陣営は大内方への鞍替えを加速してしまいます。

大永5年(1525年)8月、武田光和は尼子方から大内方へ裏切った天野氏らと戦いますが、大内氏は攻撃の手を緩めず大永7年(1527年)には安芸の尼子方陣営であった阿曾沼氏を降伏させます。
また同年5月、光和は大内軍に攻められていた尼子方陣営の白井氏救援のため大内軍と合戦しますが敗戦しています。



そして、こうした安芸での尼子方劣勢を挽回するべく、尼子氏当主尼子経久が自ら備後へ出陣。
尼子経久出陣の報せをうけた大内軍は安芸から備後へ出陣し、備後の和智郷細沢山で尼子軍と激突し勝利します。
その後、大内軍は再び白井氏攻めを行いますが、大内氏当主大内義興が急死したため周防に撤退。
義興の死によって大内氏の安芸武田氏攻略はしばらく中断されます。

しかし、安芸武田氏ではこの間に毛利氏当主毛利元就の計略を受けて重臣の熊谷氏が離反。
天文2年(1533年)8月には武田光和は自ら熊谷氏の籠る高松城に攻め込んでいます。

その後武田光和は、再び安芸へ進軍してくる大内軍と広島湾を舞台に攻防を続けますが戦いの最中である天文9年(1540年)6月に病死。
光和には嫡子がいなかったため、若狭武田氏より武田信実が安芸武田氏当主に迎えられます。



しかし、跡を継いだ武田信実は安芸武田氏家中をまとめることができなかったと言われており、天文10年(1541年)吉田郡山城の戦いで尼子軍が毛利・大内軍に敗退すると信実は単身出雲に逃走。
その後取り残された安芸武田氏の家臣団は当主不在の居城金山城を毛利軍に攻められ、安芸武田氏は滅亡してしまいます。

(寄稿)kawai

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