宇都宮鎮房(城井鎮房)~怪力無双で強弓使いの名将

宇都宮鎮房

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宇都宮鎮房(城井鎮房、きいしげふさ)は1536年生まれ。父は城井谷城主・城井長房。母の詳細は不明。

この城井家(豊前宇都宮家)は、源頼朝より豊前(福岡県東部)の税所職・田所職などに任じられた宇都宮信房を先祖に持つ、下野(宇都宮城)の宇都宮家の分家に当たる。

父・城井長房は、外交能力に非常に秀でた人物で、九州の豊前にありながら、、本家筋である下野宇都宮氏の内紛に常に介入してが、その反面、領国の政務をほとんど行なわなかったと言う。
芳賀高経の反抗を抑え、幼少であった宇都宮広綱が、宇都宮家の家督相続したのは、城井長房の貢献が大きい。

このような状態であった為、宇都宮鎮房(城井鎮房)は、先祖伝来の城井谷城(福岡県築城町)にて早くから領国経営を任されていたようだ。
宇都宮鎮房は領民に慕われた名将で、身の丈6尺(約180cm)はある大男だったと言う。

1559年には父・城井長房と共に上洛し、足利義輝に拝謁している。

最初は大内義隆に属していたが、大内義隆が陶隆房の謀反で殺害されたあとは、豊前を支配した大友義鎮(大友宗麟)に服従した。
この時、大友義鎮から一字拝領し、宇都宮鎮房と名乗り、正室に大友義鑑の娘(大友宗麟の妹)を迎えた。

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1578年、北へと勢力を拡大する薩摩の島津義久との決戦である耳川の戦いに、宇都宮鎮房も参戦したが大友宗麟は大敗し、以後、大友家が衰退の一途を辿り、薩摩の島津義久に寝返った。

1584年には、島津義久が沖田畷の戦い龍造寺隆信に勝利し、島津義久は九州統一を目前とした為、大友宗麟は四国統一を果たした豊臣秀吉に助けを求めた為、1586年7月に、豊臣秀吉による九州攻めが開始された。

豊臣秀吉の約20万とも言われる大軍が九州に押し寄せると、宇都宮鎮房はさしたる抵抗もせず、豊臣秀吉に帰順。
黒田官兵衛が所領安堵を約束し、寝返りを手引きしたとも考えられる。

その後の島津攻めに加わったが、宇都宮鎮房自身は病気と称して出陣せず、子の宇都宮朝房(城井朝房)に僅かな兵を預けて参戦させただけであった。
しかし、九州の地に明るい宇都宮勢であった為、道案内として先陣で活躍した為、1587年、九州平定後の論功行賞(九州国分)で、城井谷城30000石から、四国・今治12万石への加増・移封となった。また、豊臣秀吉は安国寺恵瓊を通じて、宇都宮鎮房が所持する藤原定家の「小倉色紙」の引渡しを命じたと言う。

■宇都宮鎮房の反乱

城井谷城を含む豊前6郡の領主となった黒田官兵衛黒田長政は1587年7月に馬ヶ岳城に入国した。
しかしながら、先祖伝来の地と家宝を守りたい宇都宮鎮房は、この豊臣秀吉に対して国替えを拒否した為、今治12万石も没収となり、城井谷城からの退去を迫られても、行き場を失っていた。

小倉城60000石として入った、豊臣秀吉・古参の家臣である毛利勝信(毛利吉成)が、この状況を見て仲介。あわよくば、この勇将を自分の配下に加えたいとも考えていたようだ。
城井家(宇都宮家)の旧領土3村(田河郡赤郷)を宇都宮鎮房が借り受けて、一旦、城井谷城を明け渡して豊臣秀吉への嘆願を行うと言う提案を受け入れ、1587年7月9日に宇都宮鎮房は城井谷城を出て、借りた田河郡赤郷柿原へと移った。

しかし、肥後に入った佐々成政が、すぐに太閤検地を断行したため、肥後国人一揆が勃発。
佐々成政は単独で一揆を鎮圧する事が出来ず、豊前の黒田官兵衛らが肥後国一揆の鎮圧に向かった。

なお、豊前の豪族は、ほとんどがこの宇都宮家(城井家)から分かれた分家であり、宇都宮鎮房を筆頭に、豊臣秀吉や新領主・黒田家に対して余り快く思っていなかった。
しかし、時枝平太夫(時枝鎮継)・宮成吉右衛門・広津鎮種・中間六郎左衛門(中間統種)の豪族4人は黒田官兵衛に臣従していた。

そんな中、豊前国上毛郡の豪族・如法寺久信(如法寺孫二郎)が、上毛郡の豪族と共に、黒田官兵衛に臣従していた豪族・広津鎮種の広津城を攻撃。
黒田家の主力部隊の留守を突いて、挙兵したのだ。(上毛郡一揆)

豊前の留守を任されていた黒田長政と井上九郎左衛門は、1587年10月1日に馬ヶ岳城を出て上毛郡で起きた一揆の鎮圧に向かい、豪族・如法寺久信(如法寺孫二郎)を討ち取る。

この隙を突いて、宇都宮鎮房は1587年10月2日、毛利勝信(毛利吉成)から借りていた田河郡赤郷柿原を出発し挙兵。
旧領・城井谷にあるの大平城を攻撃した。この時、大平城は黒田官兵衛の家臣・大村助右衛門が守備していたが、宇都宮鎮房は大平城を奪還。
すると、城井谷の領民が宇都宮鎮房に協力し、居城・城井谷城の奪還にも成功し、一揆は豊前全土に広がっていった。

豊前国人一揆の報を受けた黒田官兵衛は、小早川隆景に肥後国人一揆を任せて、馬ヶ岳城へと急ぎ帰還し、豊臣秀吉に援軍を求めると、毛利輝元らの派遣が決定した。

宇都宮鎮房は馬ヶ岳城の近くまで進出し、兵糧を奪い、放火などのゲリラ作戦を展開した為、黒田長政は激高。
黒田官兵衛から出陣許可が降りない中、井上九郎左衛門や竹森新左衛門の反対を押し切り、黒田長政は2000の手勢を率いて、10月9日出陣した。

宇都宮鎮房は城井郷城にて城井谷の地形を活かし、黒田長政の先鋒隊を深入りさせて壊滅させ、大野小弁らが身代わりになって討死するなど、黒田長政は家臣に守られて命からがら、居城・馬ヶ岳城まで逃げ帰った。
黒田長政が神楽城を修復し、城井谷城を監視・封鎖させると、黒田官兵衛は豊前各地で発生した一揆の鎮圧に向かった。

下毛郡の中間六郎右衛門(中間統種)は、武名高い黒田官兵衛に早々と降伏。その中間六郎右衛門の手引きで、上毛郡の山田大膳も討ち果たし、有力な反乱軍はほぼ鎮圧され1587年12月下旬になると、残されたのは城井谷城の宇都宮鎮房だけとなった。

黒田官兵衛は「経費の節減」「懲役および年貢の軽減」「寛大なる政令」という三大網目を発表し、中津城を築城開始。

中津城

一方、城井谷城では食料不足に陥り、宇都宮鎮房は安国寺恵瓊を通じて黒田官兵衛に和議を願い出た。

1588年正月、小早川隆景と黒田官兵衛は宇都宮鎮房の処分について協議した結果、子の宇都宮朝房と、娘・鶴姫(13歳)の2人を人質に差し出すことを条件に、宇都宮鎮房の領地安堵する和議を認め、1588年1月末、豊前での一揆は完全に鎮圧された。

鶴姫と黒田長政の婚姻(側室?、正室とも?)が条件だったともあるが、人質だった可能性が高い。

■宇都宮鎮房暗殺

人質を差し出して黒田官兵衛に降伏したものの、宇都宮鎮房は城井谷城に籠もったままで、不穏な動きを続けた。
しかし、黒田官兵衛が、豊臣秀吉から肥後の諸事置目などを申し付けられ、人質・城井朝房を連れて肥後へ向かうと、1589年4月20日、宇都宮鎮房は黒田長政への挨拶を理由に、手勢200人を従えて突然中津城を訪問した。
この訪問は、黒田家側が鶴姫との面会を許したと言う罠だとも言われるが、良く分かっていない。

宇都宮鎮房は城下町にある合元寺(庶子の空誉が住持)に従者を待機させ、数人の側近を連れて中津城を訪れた。

黒田長政は「本当に挨拶なら、日時を打ち合わせて、父上が居る時に来るはず。父上の留守に案内もなく押しかけてくるとは、ますます無礼である」と言い暗殺を計画。

不穏な空気を察したのか、宇都宮鎮房は1人だけで中津城内へ入れとの指示をそのまま受け入れると、黒田長政は宴席を設けたが、宇都宮鎮房の態度は降伏した武将には見えなかったと言う。

膳を運んできた野村太郎兵衛が、膳を宇都宮鎮房に投げつけ、左の額から目の下まで切りつけると、側にいた黒田長政も、左肩から右横腹までを切りつけ、宇都宮鎮房は倒れたと言う。

城外で待機していた宇都宮鎮房の家臣にも切り込むと、宇都宮鎮房の死亡を知った城下の宇都宮勢は大挙して中津城へと迫ったが、黒田勢は鉄砲などで追い返したと伝わる。
宇都宮家の家老・渡辺右京進らが討死した合元寺での戦いは悲惨を極め、合元寺の白壁は血で真っ赤に染まり、今でも寺の庫裏の柱に刀傷が残っていると言う。

4月22日、黒田長政は城井谷城を攻撃。宇都宮家の家臣は必死の抵抗をしたが、黒田長政は宇都宮鎮房の屋敷を焼き払い、逃げようとした宇都宮鎮房の父・城井長房など一族13名を捕縛し、その日のうちに中津へ戻ると中津川で処刑している。

4月23日、暗殺したとの知らせを受けた黒田官兵衛は、加藤清正らと共に、肥後国木の葉にいた人質・宇都宮朝房の宿舎に火を付けた為、宇都宮朝房は従者と共に切腹。

人質の鶴姫は投獄されたが、黒田官兵衛が豊臣秀吉の許しを得て助命し、鶴姫は尼となって城井谷の山奥ににて、宇都宮一族の冥福を祈りながら天命を全うしたと言う。
鶴姫は広津の千本松河原で処刑されたとも伝わるが、信憑性は薄い。

黒田官兵衛を最後に困らせた宇都宮鎮房であったが、城井谷の住人は黒田家を恨み続け、現在でも黒田官兵衛を嫌っていると言われる。
中津城では宇都宮鎮房の亡霊が出没し、黒田長政はその亡霊に恐れて、中津城内に城井神社を創建しその霊を祀っている。

城井神社

なお、宇都宮朝房の妻・竜子は、城井谷城落城の際、家臣に助けられて英彦山の南の宝珠山村へと落ち延び、妊娠していた子・城井朝末を産んだとされ、その後、実家の秋月家を頼った。

2月に、謝罪のため大坂城に出向いた佐々成正は幽閉され、領国経営に失敗の罪で、閏5月14日に切腹させられているのを考えると、黒田家が一揆勢に厳しく対したのも少しは理解できる気がする。

中津・合元寺の赤壁

合元寺は、黒田長政が宇都宮鎮房らを中津城にて殺害したとき、この寺に籠もっていた宇都宮家の家臣を襲撃して、討ち取りました。
その時の返り血が塀にこびりつき、何度塗り替えても浮き出たため、塀を赤くしていると言う伝承が残されています。

中津・合元寺

通称「赤壁」といわれる見事な壁です。

中津・合元寺

合元寺・赤壁がある場所は下記の地図ポイント地点となります。
中津駅より徒歩6分のところで、この辺りは、中津城下の寺町になっています。

お鶴 (鶴姫、千代姫)~宇都宮鎮房(城井鎮房)の娘の悲劇
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    • なんか違う
    • 2015年 10月 23日

    中津城から
    長政が弱く、命からがらに
    逃げた。だから、

    官兵衛から言われたように
    制圧できず、
    和睦を入れる謀略にでた。
    この方が内容が
    おかしくないでしょ。
    鶴姫を嫁にする。宴を開くと呼ばないと
    敵城にホイホイいかないとおもいますよ。

    • 高田哲也
    • 2015年 10月 23日

    ご指摘の通り、その方がストーリーとしてはすんなり受け取れますね。
    実際に意図的な事は良くわからないらしく、参考にする内容によって、様々なとらえ方がおるようです。(^-^)

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