後藤貴明とは~正当性を主張し戦国時代の荒波を乗り切った恒安館主


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後藤貴明(ごとう-たかあき)は、大村館主・大村純前の長男として1534年に生まれました。通称は後藤又八郎です。
母は名前不詳の側室です。

なお、母は側室と言うよりは身分の低い女性であったようで、後藤貴明は長男ながら庶子として扱われたようです。
そのため、1538年には日野江城主・有馬晴純の次男である6歳の勝童丸(大村純忠)が、養嗣子となります。
こうして、大村純前の実子(庶子)の又八郎は、1545年、塚崎城主・後藤純明の養子に出され「後藤貴明」と称しました。

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この時、大村家では跡継ぎの資格があった後藤貴明が養子に出された事で、後藤貴明に従う家臣もあり、家中が騒がしくなったと言います。
必然的に後藤家と大村家は対立するようになりました。

1553年3月18日に養父・後藤純明が死去すると後藤貴明が家督を継承。
そして、当時実子もいなかった後藤貴明は、1560年に平戸城主・松浦隆信から後藤惟明を養子に迎えましたが、これは松浦隆信が宗家と対立し、また後藤貴明も大村純忠との抗争があり、お互いの利害が一致した政治的なものと言えます。

同じ1560年、大村純忠の実父・有馬晴純が武雄の潮見城を陥落させますが、後藤貴明はすぐに奪い返しています。
しかし、潮見神社の巫女の神託を信じ、鉄砲を城外に運び出したことで、城を奪われた責任を感じた家臣の渋江公師は、肥後に逃亡しました。
1561年、嬉野の原直景を降伏させ、1563年には大友宗麟に秘かに同盟を結んでいます。

1563年7月、三城城の大村純忠に従っていた横瀬浦奉行・針尾伊賀守を内応し、針尾伊賀守が大村家の貿易港「横瀬浦を襲撃」しました。
後藤貴明は城下町になだれ込みますが、野岳の戦いにて大村純忠に敗退。
この時、勢力を盛り返していた佐賀城主・龍造寺隆信が武雄に迫ったため、後藤貴明は龍造寺家に臣従しました。

龍造寺家に従い須古城主・平井経治を攻めた際には、平井経治の娘を、松浦家から来ていた後藤家の養子・後藤惟明(ごとう-これあき)の正室に迎え同盟しています。
そのため、1564年2月に、龍造寺隆信が須古城を攻撃した際に、後藤貴明は平井経治を助けて龍造寺勢を撃退しました。
その後は、平戸の松浦隆信、高城城主・西郷純尭と連合を組むようになり、大村勢の彼杵城を攻略しました。
有馬・大村の連合軍が彼杵城を奪還しようとしても、撃退しています。

しかし、1566年7月、後藤貴明は大村純忠攻めに失敗するなど、膠着状態が続きました。

1570年4月、大友宗麟による佐嘉城(村中城)攻めなる「今山の戦い」には、後藤家だけでなく有馬家、大村家、西郷家、平井家なども大友勢に加わって参陣しています。
龍造寺隆信はピンチに陥りましたが、鍋島直茂(鍋島信生)の奇襲で打開しています。

1572年7月には、平戸城主・松浦隆信、高城城主・西郷純尭らと1500にて、大村純忠の三城城を急襲しました。

三城城

兵力的には圧倒的に有利でしたが、大村純忠の家臣らの奮戦もあり、三城城の戦いでも撤退を余儀なくされています。

その後、幾度も龍造寺家とも争いますが、後藤貴明に実子である後藤晴明が1562年に誕生したことからも立場を悪くしていた、養子の後藤惟明が1574年6月23日、反旗を翻します。

後藤貴明は城を追われたため、やむを得ず敵対していた龍造寺隆信に救援を求めます。
そして、龍造寺勢に攻められた養子の後藤惟明は8月21日に降伏し、実家の松浦家に戻りました。
勝利した後藤貴明でしたが、龍造寺隆信に実子・後藤晴明を人質として差し出しています。

しかし、翌年1575年8月、後藤家と龍造寺家の関係は早くも破たんしています。

1576年3月、龍造寺隆信は、後藤家の居城・塚崎城まで迫り、城に放火しました。
1577年2月、再度、和議が成立しますが、後藤貴明の実子・後藤晴明は龍造寺隆信に養子となっては龍造寺家均となります。
その代わりに、龍造寺隆信の3男・龍造寺家信が後藤貴明の娘・槌市と結婚して、後藤家に養子として入り後藤家信と称しました。

こうして、後藤家は事実上、龍造寺家の支配下に置かれることになりました。

1578年7月、後藤貴明(後藤伯耆守貴明)は後藤家信と共に龍造寺勢に加わって、三城城の大村純忠を降伏させ、大村純忠も龍造寺家に臣従します。

以後、後藤家としては後藤家信の活動が多くみられるようになり、龍造寺家の戦いに従っています。

1583年8月2日、後藤貴明は死去しました。
武雄・貴明寺に後藤貴明の木造があると言います。

その後、後藤家信は龍造寺家の一門として武雄領主19704石となり、鍋島姓を賜る形で後藤家り子孫は武雄鍋島家として明治維新を迎えています。

後藤伯耆守貴明の家臣

渋江公親(潮見城主)、渋江公師(渋江公親の子)、大串正俊(神浦城主)、加々良兼明(三城攻めで先鋒)、小船串大和守(三城攻めで先鋒)、久間盛種(久間城主)、久間盛員(久間盛種の子)、久間盛周(久間盛員の子)、辻越後守(久間一族)。

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