原マルチノとは~キリスト禁教令によりマカオに追放された数奇な運命

原マルチノ

スポンサーリンク
スポンサーリンク

末っ子は甘えん坊なんてイメージがありますね。
でも、案外、年下の妹や弟の方がしっかりしてるなんていう人もいるのではないでしょうか?
天正遣欧少年使節のメンバーは4人とも生年は断定できていませんが、最年長が伊東マンショ
最年少が原マルチノだと言われています。

今回紹介するのは天正遣欧少年使節の最年少、原マルチノ(はら-まるちの)。
末っ子の彼は使節の中で一体、どんな活躍をしたのでしょうか。

イタリアに残された唯一の手がかり

原マルチノの出自が分かる資料は日本には残っていません。
しかし少年使節について記録したイタリアの史料『ボローニャ元老院日記』がマルチノの出自に触れています。
それによると、マルチノは「ハサミの町生まれ」「ナカズカサの子、16歳」と書かれています。
以上のことから、マルチノは永禄12年(1569年)頃、肥前国波佐見(現在の長崎県波佐見町)の出身で、父親が原中務大輔純一(はら‐なかつかさ‐だいすけ‐すみかず)だということが分かります。
原純一は波佐見城主であった原氏の一族で、大村の三城城大村純忠に仕えていました。
マルチノも純忠の小姓でした。

 スポンサーリンク


日本で最初のキリシタン大名である大村純忠に仕えていた一族であるなら、その一族であるマルチノもキリスト教に改宗した可能性は高いですね。
なぜマルチノの出自が残されていないのか。
マルチノの兄と推測される人物に原家政がおり、彼は後にキリシタン一揆 島原の乱を鎮圧する鍋島家に仕えます。
そのため、キリシタンであったマルチノは家系図から消されてしまったのではと考えられます。

少年使節団随一の語学力

少年使節団は有馬にあったセミナリヨの一期生の中から選ばれました。
従って、マルチノもセミナリヨの一期生であったことになります。
4人の中では最年少だったマルチノでしたが、語学力は4人の中で1番でした。
ここでいう語学とは、司祭になるために必須であったラテン語のことです。
天正15年(1587年)ローマからの帰路の途中、インドのゴアにあったコレジオでヴァリニャーノに対し、ラテン語で感謝の演説を行いました。
マルチノの流暢なラテン語に、ゴアにいた西洋人は驚いたといいます。
この演説は翌年、使節に随行していたコンスタンチノ・ドラード(現在の長崎県諫早市出身の日本人。日本名は不明)によって、『原マルチノの演説』として出版されました。
ちなみにこの『原マルチノの演説』は使節がヨーロッパから持ち帰った活版印刷機で出版され、日本人の手によって初めて出版された活版印刷物ということになります。

カリスマ司祭へ

慶長13年(1608年)、マルチノは伊東マンショと中浦ジュリアンと共に、被昇天サンタ・マリア教会(現在の長崎県庁)で司祭に叙階されます。
司祭として宣教活動をしながら、得意の語学を活かし、洋書の翻訳者として印刷事業にも貢献しました。
原マルチノは当時の日本で、最もヨーロッパ語に長けた日本人だったかもしれませんね。
また渉外力もあったようで、関ヶ原の戦いで敗北したキリシタン大名・小西行長の領地で活動していた外国人宣教師が加藤清正に捕縛されると、マルチノはヴァリニャーノの命令を受けて、清正と宣教師の解放交渉も行いました。
説得は成功し、宣教師たちは無事に解放されました。
そんな能力が評価されてか、マルチノはコレジヨの院長にまで推薦されました。

マカオへ追放

キリシタン弾圧が日増しに激しくなる中、慶長19年(1614年)、マルチノは江戸幕府の禁教令によってマカオへ追放されます。
イエズス会は日本にいる司祭を国外追放組と日本潜伏組に分けました。
この時、潜伏組になったのが中浦ジュリアンでした。
イエズス会の上長は優秀な原マルチノが日本人司祭のリーダーとして、イエズス会を率先していくことを懸念したため、彼を追放組にしたのです。
この時、マルチノはあの活版印刷機を船に積み込んでいました。
マルチノは一緒に追放されたドラードと共に、その後15年間、出版活動を続けました。
しかし寛永6年(1629年)10月23日、日本に戻ることなく、同地で亡くなります。
遺体はマカオのサン・パウロ教会にヴァリニャーノとドラード並んで葬られました。
禁教令後も死ぬことを厭わず、日本に潜伏し、殉教した宣教師が数多くいた中、日本へ戻らなかったマルチノ。
「マルチノは追放されたのではなく、迫害を恐れて海外へ逃亡した」という風評もありました。
原マルチノが帰国しなかった理由は今となっては知る由もありませんが、彼が続けてきた翻訳活動―
もしかしたらマルチノは翻訳者としての自分に価値を見出し、キリスト教の洋書を翻訳することこそが自分の使命だと感じていたかもしれません。

(寄稿)ゆほ

三城城と三城七騎籠による三城城の戦い~大村純忠終焉の館も
天正遣欧少年使節とは~戦国時代にローマへ渡った4人の少年使節団の運命
大村純忠と大村喜前とは~玖島城(大村城)の見事な石垣も
千々石ミゲルとは~天正遣欧少年使節でローマに渡るもキリスト教を棄教
千々石直員と釜蓋城~天正遣欧使節の千々石ミゲルがキリスト教を辞めた理由?
中浦ジュリアンとは 優しいけどちょっと頑固なジュリアン神父
有馬晴信と日野江城~沖田畷の戦いでは南蛮防衛での最新兵器を駆使か?
大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
フランシスコ・ザビエルと日本人初のキリスト教徒アンジロー(ヤジロウ)
ルイス・フロイス、ヴァリニャーノと黒人・弥助
伊東マンショとは~天正遣欧少年使節の代表者である正使を務める
紫式部の生涯~源氏物語が執筆された廬山寺
藤原公任とは~平安時代随一の文化人で才能ある公卿

共通カウント



 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1.  阿南姫(おなみひめ)は、米沢城主・伊達晴宗の長女として1541年に生まれた。兄に岩城親隆、弟に伊達…
  2. 竹林院(ちくりんいん)の生年は不明。本名は利世(りよ)、安岐姫ともあるが、小説などでの創作名であ…
  3. 曳馬城主である飯尾連竜(いいお-つらたつ)は、今川義元に仕えていた。飯尾致実(いいお-のりざね)…

人気の戦国武将

  1.  真田幸村(真田信繁)とは?どのような人物だったのか? 真田幸村は1567年に武藤喜兵衛昌幸(の…
  2. 淀殿(茶々)が産んだ、子供である豊臣秀頼の父親は誰なのでしょう?状況的には豊臣秀吉が父親であ…
  3. 南渓瑞聞(なんけい-ずいもん)とは、井伊谷城主・井伊直平の次男である。生年は不明。戦国初…
 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る