土岐頼芸とは
土岐頼芸(とき-よりのり)は、土岐政房の次男として1502年に生まれました。
土岐氏は美濃守護であり、その補佐として美濃守護代の斎藤氏、美濃小守護代の長井氏がいました。
しかし、守護代・斎藤利国(斎藤妙純)が、1497年に一揆で討死しており、長井長弘の力が強まっていました。
その長井長弘の家臣に加わっていたのが、松波庄五郎、のちの斎藤道三とされます。
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父・土岐政房は、土岐頼芸を溺愛して、兄・土岐頼武(とき-よりたけ)に家督を継がせない行動に出ます。
そのため、当然ながら家督争いとなり、守護代・斎藤利良は兄・土岐頼武に味方し、土岐頼芸は小守護代・長井長弘や長井新左衛門尉(斎藤道三の父とされる)らの支持を受けました。
こうして、1517年、ついに家臣の内紛となります。
戦いは1年続いたようですが、最終的には土岐頼芸が勝利しました。
敗れた兄・土岐頼武は、斎藤利良の伯母の嫁ぎ先の越前・朝倉氏のもとへ逃れています。
その結果、長井長弘も求心力を失いますが、朝倉孝景が支援すると立場は逆転して、今度は、兄・土岐頼武が美濃に返り咲きます。
一時、土岐頼武が政権を維持しましたが、1525年、今度は、没落していた長井長弘が復活を目指して、長井新左衛門尉とともに挙兵して、新守護代である斎藤利茂の居城・稲葉山城を攻略します。
また、美濃守護の本拠・福光館も占領したため、土岐頼芸が鷺山城に入って美濃守護となりました。
この時、大きく貢献したのが、長井規秀(斎藤道三)だったともされ、重用するようになります。
1526年頃(1527年とも)には、妾の深芳野(みよしの)を、長井規秀(斎藤道三)に下贈したとされるのは有名な話です。、
その深芳野が産んだ斎藤義龍は、斎藤道三の子ではなく、土岐頼芸の子であったとする説もあります。
そして、1530年には、再び兄・土岐頼武を越前に追放し、1535年に父の17回忌を執り行い、自らが守護職であると宣言しました。
そのため、また美濃は内乱となり、六角定頼の娘を正室に迎えて支持を取り付け、1539年には、大桑城にいた兄・土岐頼武の子である土岐頼純と和睦しました。
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1541年頃、斎藤道三が土岐頼芸の弟・土岐頼満を毒殺したとして、対立するようになると、1542年頃、土岐頼芸は放逐されて、連枝を殺害した斎藤道三が美濃の国主となりました。
土岐頼芸は子の土岐頼次と尾張に逃れています。
土岐頼芸は、鷹の絵を描くのが得意だったと言い、家臣である明智孫十郎などに、褒美として与えたりしています。
その後、土岐頼芸は、清洲城主・織田信秀の支援を受けて、越前の朝倉孝景の世話を受けていた兄の子・土岐頼純と連携します。
そして、実権がない守護として復帰しますが、1546年に斎藤道三と朝倉孝景が和睦すると、土岐頼芸は守護の座を土岐頼純に明け渡しました。
また、1548年に、織田信秀と斎藤道三が同盟すると、ついに後盾を失い、1552年頃に再び追放されて、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、そのあとは、実弟で江戸崎城主の土岐治頼がいる常陸、その後は、上総の万喜城主・土岐為頼を頼り、最後には、甲斐にて武田信玄を頼りました。
1582年、織田信長が武田勝頼の甲州征伐を行った際には、武田氏に庇護されていた土岐頼芸が保護されています。
旧臣である稲葉一鉄が、美濃に連れて戻りましたが、まもなく死去したと言われています。
享年81。
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子の土岐頼次は、やがて松永久秀の家臣になっていますが、その後、豊臣秀吉の馬廻りとなりました。
ちなみに、赤穂浪士で知られる江戸城・松の廊下にて、浅野内匠頭が、吉良義央に切りかかった際に、たまたま、その場にいて、浅野内匠頭を取り押さえた梶川頼照は、土岐頼次の3男・土岐頼泰の子となります。
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