松波庄五郎~斎藤道三の父?謎多き美濃の国盗り武将~

松波庄五郎




2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で本木雅弘さんの熱演で話題になった戦国武将・斎藤道三は従来、油売りの青年だったのが武士になり、下克上の末にのし上がった武将と言うのが有名でした。しかし、近年では道三による国盗りは彼とその父・松波庄五郎(まつなみ-しょうごろう)の二代で築いた可能性が高いと言われています。

長井新左衛門尉の別名でも知られる松波庄五郎は、山城乙訓郡西岡で明応3年(1494年)ないしは永正元年(1504年)に生まれたと言われています。が、その生年自体が息子である道三のものとかぶっており、生年、出身地共にはっきりしていません。

庄五郎が生まれた松波家は皇居を守る北面武士を輩出した家であったと伝えられており、彼の父は藤原北家日野氏の庶流で松波左近将監基宗と言う名であったと言います。峰丸と言う幼名だった庄五郎は11歳で京都の妙覚寺で出家し、法蓮房と言う法名を名乗りました。その間の動向は詳細ではありませんが、学友の日護房が美濃にある常在寺に赴任した際、それを機にして還俗した法蓮房も同行します。その時に名乗った名前が、松波庄五郎です。

『美濃国諸旧記』によると、美濃に移住した庄五郎は油問屋・奈良屋又兵衛の娘を妻として油商人・山崎屋として商いを始め、大永年間(1521~1528)には一文銭の穴を通して油を注ぐ方法で評判の行商となったと言います。その際、土岐家の武士からその力と才覚を武芸に向けることを提言され、商売を中止して鉄砲の扱いや鎗術と言った武芸に打ち込んだというのが、庄五郎が武士を目指した起因となった逸話です。


その夢を果たすために庄五郎が頼ったのが、日運と名乗って常在寺の住職を務めていた日護坊でした。彼の縁故で美濃守土岐氏小守護代・長井長弘に仕えた庄五郎は、後に長井氏の家臣であった西村の名を受け継ぎ、西村勘九郎正利と改称します。

こうして出世の糸口をつかんだ庄五郎の活躍は目覚ましく、大永7年(1527年)に土岐頼芸の兄である政頼を越前へと追い払い、かねてから自分を信任していた頼芸の守護補任に貢献しました。一方で自分に長井姓を賜り、新左衛門尉の名まで名乗らせて推挙してくれた長弘を享禄3年(1530年)に不行跡の罪でその妻と共に倒しており、梟雄の片鱗を見せています。(※1)

以上の遍歴を見てみると、生年や出自のみならず庄五郎が美濃で国盗りに至るまでの記録・伝聞はこれまで息子の道三が一代で成し遂げたとされるものとほぼ変わりません。そのため、従来は松波庄五郎=斎藤道三とする同一人物説が一般的でしたが、1960年代になってはじめられた『岐阜県史』編纂の過程で発見された「六角承禎書写」によって、美濃の国盗りを為したのは庄五郎と道三の親子2代である可能性が極めて高くなり、庄五郎の存在と業績も注目されるようになっています。

道三と言う有名な息子を残し、その覇道の礎を築いた庄五郎でしたが、その没年も明確ではありません。庄五郎は一説には長井豊後と名乗っており、豊後が天文2年に病を患ったとも同時代の公卿が記してもいることや、息子の長井規秀(斎藤道三)が初めて歴史の表舞台に出ているのが同じ年であることから、天文2年以降に死去したと言われています。

活躍期間ばかりか生没年すらも不詳の松波庄五郎ですが、彼が後を託した子である道三は蝮の名に恥じぬ知勇兼備の武将となっており、斎藤氏の草創期を築き上げた偉業に変わりはありません。

(※1)天文2年(1533年)説がある。また、討ち取ったのは長井規秀(のちの道三)とも。

(寄稿)太田

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