お濃(濃姫、お濃の方、帰蝶、鷺山殿)~謎多き道三の娘の生涯



濃姫(帰蝶)は美濃の大名・斎藤道三の3女で1535年生まれとも。
母は明智光継の娘である小見の方
兄弟には斎藤利治がいる。斎藤義龍(斉藤義竜)とは異母兄妹。

明智光秀とは従兄妹同士という説もある。
小見の方(おみのかた)は、1532年に長井規秀(のちの斎藤道三)に嫁いだとされ、帰蝶(きちょう)の生まれ年は1535年と推測されている。
小見の方は、明智光秀の叔母にあたる可能性があり、明智光秀が生まれたあとに、帰蝶が生まれていると推測できる。

「美濃国諸旧記」と「武功夜話」によると名前は帰蝶(きちょう)。
斎藤道三の娘にして、織田信長の正室にも拘わらず史料が非常に少なくよくわかっていない。



最近、わかってきた説としては、織田信長に嫁ぐ前に、一度、別の武将と結婚していたとされる。
1544年に、斎藤道三と織田信秀が和睦した際の条件の一つに、帰蝶が織田信長に輿入れすると言う項目がある。
しかし、実際に嫁いだのは1548年であるため、恐らくはまだ11歳前後だった帰蝶がまだ幼いと言う事で、すぐに結婚と言う事にはならなかったものと推測される。

その後、斎藤道三が、越前の朝倉孝景とも和睦すると、美濃守護は、土岐頼純が就任すると言う事になり、その約束を守る担保として、このとき、斎藤道三の娘が、土岐頼純に輿入れしたとある。
この娘の名は不明だが、主筋である土岐家の当主への輿入れであることから、斎藤道三の正室が産んだ、唯一の娘である、濃姫(帰蝶)が嫁いだとする説が出てきた。
これが正しければ、織田家に嫁ぐと言う約束は反故になった訳だが、夫の土岐頼純は、1547年に24歳で死去した。
大桑城が落城した際に討死したとも、斎藤道三に暗殺されたともされている。
いずれにしろ、斎藤道三の娘(濃姫?)は、夫が亡くなったことで、実家に戻ったものと考えられる。


その後、織田信長の守役でもある、平手政秀の功もあり、帰蝶(13歳?)は1548年の秋に、織田信秀の嫡男・織田信長に嫁いだ。

下記は清洲公園にある織田信長・濃姫像となる。

織田信長・濃姫像

なお、2人の間には子ができなかったとされる。
斎藤家の菩提寺常在寺に父・斎藤道三の肖像を寄進した事は、良く知られているが、濃姫が織田家に嫁つぐ際「織田信長が、まことうつけ者であったならばこの刀で刺せ」と言う話は江戸時代に創作された物と推定できる。

テレビドラマや小説などでは、度々登場する濃姫だが、結婚後の生涯は謎に包まれており不明な点が多く、織田信長が本能寺の変で明智光秀に敗れた後も、動向や没年など、良く分かっておらず、濃姫の墓所、墓石も特定されていない。
その為、本能寺の変で、薙刀で明智勢に抵抗して討死したとする説もある。
織田信長のことが多数記載されている「信長公記」でも、濃姫の事に関しては全く書かれていない。

本能寺の変の直後、蒲生賢秀が安土城から、織田信長の子女・側室達を日野城に避難させたが、その中に「安土殿」と言う名が見え、その人物が濃姫だとする説もあり、織田信雄分限帳に「六百貫文 アツチ殿」と言う記述も見られる事から、本能寺の変のあとも生存していたと推測される。



 
没年の説は下記の通り。

斎藤義龍が1561年に病没したすぐあとに濃姫も死亡とも。
濃陽諸士伝記にそのような記述がある。

1556年とも? いくつかの史料で生駒吉乃の事を「御台」という正室の呼び名で記している事から、織田信忠が誕生した時にはすでに濃姫(のうひめ)は織田信長の側を離れていたとする。
そして、斎藤道三が斎藤義龍に敗れて1556年に亡くなると、織田家としては斎藤家の同盟も意味がなくなったことから、濃姫は母・小見の方の実家である、美濃・明智城明智光安のところに戻されたと言う話もある。
このとき、明智氏は、斎藤道三に味方していたため、斎藤義龍は敵とみなして、揖斐光就・長井道利ら3700の軍勢を送った。
明智光安(明智宗宿)、明智光久、一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870名が籠城した。
しかし、明智光安は、明智光秀に明智家再興を託して、弟・明智光久と自刃し、妻や妾も落城前に自刃したと言う。
この時、明智家に返されていた22歳の濃姫も、明智一族と運命を共にしたともされる。

本能寺の変でなくなったとする場合とその理由は、濃姫の遺髪を埋葬したとされる濃姫遺髪塚が岐阜県不動町(岐阜城下)にあるためで、その場合、濃姫の年齢はおよそ47歳。
1612年説では、大徳寺総見院の織田家墓所の織田家過去帳にある「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」から。およそ77歳。(実際の墓石に記された文字は解読不能)

ただし、上記史料ではいずれも「御台」などと言う表現で、その御台が濃姫だと示す証拠はない為、正確な没年がわからないのである。


このように、濃姫(帰蝶)は、織田信長の正室と言う、とても有名な立場でありながら、わからないことがスゴク多い。
どんな武家でも、正室との間に男子が欲しいのに、織田信長との間には、娘すらいなかったとされるのを考慮すると、子供とも言える12歳ころから、政略結婚に振り回されて、夫(土岐頼純)が暗殺され、悲しみも癒えない間に、織田家にイヤイヤ、泣きながら嫁いだのではないかと感じてしまう。
そのため、織田家では、引きこもりではないが、目だった行動もなく、表に出ることもなかったため、ほとんど、史料にも、お濃の方に関する記載がないのではないだろうか?
もっとも、若い段階で亡くなっていたら、その分、史料も少ないので、明智一族と運命を共にした可能性も捨てきれない。
実は、思っている以上に、大変不幸な女性だったのかも知れない?と考えると、お濃の方が不憫でならない。

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