前野長康の解説(前野将右衛門) 川賊から取り立てられ秀吉を支えた豊臣家臣団・最古参の武将

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前野長康

前野長康(まえの-ながやす)は、戦国時代の武将で、蜂須賀小六、生駒親正
と並ぶ秀吉の信頼の厚い最古参の武将です。

秀吉がまだ織田家で頭角を現す前から行動を共にし、
その栄達と一緒に出世。有名な合戦にはほぼ参加し、
秀吉が天下を取ってから、前野将右衛門は大名となります。
さらには、次期天下人に指名された豊臣秀次(秀吉の甥)の
家老に就任します。


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しかし、順風満帆のように見えた長康の人生は、
豊臣秀頼が生まれたことで一変。実子に後を継がせたくなった
秀吉は秀次に謀叛の嫌疑をかけます。
これを弁護したことにより、前野長康と前野景定の父子は切腹をすることになります。

順調な人生と、暗い印象の晩年。
明暗がはっきり分かれている前野長康のご紹介です。

川並衆・前野家

前野将右衛門長康は、父:宗康の次男として1528年に尾張で生まれます。
通称は、将右衛門。坪内家の女婿となったとされ「坪内光景」
というもう一つの名前もあります。

前野家は、良峰朝臣(桓武天皇の子:良峰安世の子孫)
の末裔が尾張国丹羽郡前野村に移り住んで前野を称した
ことが始まりと言われています。


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蜂須賀家や稲田家とともに「川並衆」と呼ばれた前野家は、
尾張と美濃の境を流れる木曽川沿岸に徒党を組んで勢力を
張っていました。
普段は水路で荷を運ぶ水運業を営んでいますが、
戦がはじまれば武器を持って形勢のよい方に味方をして
戦場稼ぎをします。
いわゆる、水運業者 兼 傭兵を家業としていました。

織田家・木下秀吉との関わり

織田家、とりわけ当時の木下秀吉との関係は、
『武功夜話』にある墨俣一夜城のタイミング(1564年)
からという認識が一般的です。しかしそれ以前から前野家は、
川並衆として織田家に所属し働くことがあったようです。

1558年、織田信長の尾張統一戦の過程で、織田伊勢守との
合戦が行われます。この戦に参加した前野宗康・長康父子は
信長から所領を与えられています。
1560年の桶狭間合戦には、蜂須賀正勝、前野長康らが
諜報戦に活躍しています。


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しかしまだこの時点では、川並衆・前野家と織田家の関係は
曖昧なものでした。川並衆が織田家の家臣として組み込まれ
ていくのは、1564年の織田家の東美濃調略を秀吉が
担当するようになってからです。

秀吉は、川並衆に対して信長に従属することを説き、
東美濃調略への協力を依頼します。
川並衆を代表する蜂須賀家、前野家が協力を承諾すると、
諸家も織田家への協力を承諾。

ここから織田家家臣・木下藤吉郎の与力として
前野長康(前野将右衛門)が躍動していきます。

長康の功績

秀吉の与力となってからは、織田家拡張の過程でおきた
戦の多くに参加し秀吉を支えました。
金ヶ崎の退却戦では、殿軍の秀吉隊で蜂須賀小六、生駒親正等
とともに奮戦し、信長の京都帰還に貢献しています。
また、長康は秀吉の弟である秀長と行動することが
多かったようです。
但馬国攻略においては、秀長の副将格として活躍しています。

本能寺の変の後、秀吉が天下を治める過程で
起きた重要な合戦にもほとんど参加しています。

・1583年 賤ケ岳の合戦(対柴田勝家
・1584年 小牧・長久手の合戦(対織田信雄徳川家康
・1585年 四国征伐(対長曾我部元親)

これらの戦の功績により、
播磨・三木城主から但馬・出石(有子山城)にて5万3,000石の大名となります。


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また、同時期より内政へ関与することも多くなりました。
秀吉が政権を握ると、弟の秀長が政務を補佐する役に就きます。
以前より親交が深く信頼のできる長康を、秀長が頼ったのであろうこと
が想像できます。

1588年、後陽成天皇行幸の際には、聚楽第造営の奉行・
その饗応役を務めるという栄誉を得ました。

1590年、小田原の陣(対北条氏直)へ参加、1592年の文禄の役には
軍監として参加。功が認められ、11万石に加増されています。
同時に但馬の生野銀山の経営も任されていたと言われています。

このように秀吉・秀長から信頼された長康は、
文武両面から秀吉を支え、自身も大きく出世します。

関白:秀次の家老へ栄転 ~ 自害

朝鮮出兵(文禄の役)から帰還すると、長康は秀吉の
甥・秀次の家老に任命されます。後継ぎのいなかった秀吉は、
秀次を後継者とし関白職を譲っています。
次世代の天下人の補佐役に任命され、順風満帆のように思われた
長康の晩年でしたが、状況は一変します。

この翌年に、豊臣秀吉に実子:豊臣秀頼が誕生します。
一度は豊臣秀次を後継者としましたが、秀吉は秀頼に天下を
譲りたいために秀次の排除を画策します。
長康は、秀吉と秀次の間に入り関係を修復させようとしますが
うまくいきません。最終的に秀次は、謀叛の嫌疑をかけられてしまいます。
長康はこれを弁護し、最後まで秀次を庇い続けました。
しかしこれが秀吉の逆鱗に触れ
嫡男である前野景定ともども自害を言い渡されてしまいます。


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最古参の忠臣・前野長康、68年の生涯でした。

(寄稿)渡辺綱

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