豊臣秀吉の詳細解説 農民の木下藤吉郎が天下を取れた理由






豊臣秀吉とは

豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)とは、どのような戦国武将だったのか?人物伝として謹んでご紹介致します。
日本の歴史上の有名な人物といえば?と日本人に聞くと、かなりの数の人がその名を上げるであろう戦国武将・豊臣秀吉(羽柴秀吉)。
農民出身でありながら、織田信長の後を継ぎ天下統一を果たした、まさに成り上がりの人生を送った彼には、憧れる人も多いことでしょう。

私がスゴイと思う所は、豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)が織田家にて出世していく過程での手柄の立て方となります。
普通の武将であれば、戦闘行為で相手を討ち取って手柄を立てる訳ですが、豊臣秀吉は額に傷がひとつあるくらいだったと言うくらい、武勇があると言う訳ではありません。
草履とりで気に入られたと言う伝承はともかく、墨俣一夜城と言い、戦略面での「貢献度」によって出世していくのです。



そして、竹中半兵衛など優秀な人材を雇用し、城持ちとなってからも、さらに出世して行く訳ですが、このように「人」を動かして自らが出世してゆくのです。
このような武人は、それまでの戦国時代には非常に稀だったと存じます。
要するに豊臣秀吉は「人望」があり「智略」に長けていた、新しいタイプの武将と言えるでしょう。
そんな豊臣秀吉が天下人になれた理由と実際の豊臣秀吉に関して記述してみます。

農民の子から天下人へ

豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)は1537年、尾張国(現在の愛知県)に生まれます。
農民の子とされますが出世を夢見て、年若くして尾張を治めていた織田家に仕え、戦術や人心掌握に関して様々な智略を発揮してどんどん上り詰めていきます。
かの有名な、信長の草履を温めたこともその一つ。
信長も秀吉を自身の右腕として重用しており、織田家の勢力拡大に秀吉がとてつもない貢献をしたことは間違いありません。

そんな折に起きたのが1582年の本能寺の変
主君・織田信長を討った明智光秀を討つだめに、当時中国地方の平定を行っていた秀吉はすぐさま京に戻ります。
そして、明智光秀を討って信長のあとを正式に継ぎ、残りの勢力も平定して天下統一を果たします。

強権的な治世

天下統一を果たした豊臣秀吉(Hideyoshi-Toyotomi)は天皇から関白・太政大臣の地位を与えられ、本格的な治世を行いはじめます。
これは歴史上たびたび起こることなのですが、低い身分の出自の人物が天下を取ると、その政治は強権的となりがちなのです。
いずれも中国の皇帝ですが、秦の始皇帝や明の洪武帝もそのような人生を歩んでいます。

豊臣秀吉の場合は、まずは刀狩令で民衆の武力を奪い、石高制や検地で全国の土地の情報を掌握します。
さらにはバテレン追放令を出し、国内にいたキリスト教宣教師を処刑(いわゆる二十六聖人処刑)し、外来思想の排除も試みました。
このように、日本全国の人と土地の完全なる掌握を試み、身分制度の固定化をすすめ、さらには海外の思想をも統制を図ったのです。

朝鮮出兵の失敗―最期へ

冷血ともとられかねないほどの天下統一への野心を燃やした秀吉ですが、その最期は決して恵まれたものではありませんでした。
明の制圧にまで目標を拡大した彼は、1592年、文禄の役と呼ばれる朝鮮への出兵に失敗します。
多大な被害を生みながらも、わずか5年後の1597年には再び朝鮮へ出兵し、慶長の役と呼ばれる戦争を始めます。



しかし、その途中から秀吉は病に伏すようになり、1598年、明の制圧を待たずして彼は没しました。
それを機に、慶長の役は停戦協定により集結します。
お世辞にも、ヒーローのままで亡くなったとは言えない最期でした。

まっすぐか、冷血か

豊臣秀吉の生きざまを振り返ると、よく言えばわき目もふらず成果を目指した一直線な男、悪く言えば冷血な男ともいえそうです。

先に挙げた検地や刀狩などに代表されるような強権的支配も、政治手法として役に立つ方法を使ったとも、反逆を抑え込み身分制度を強化したともとれます。
また、秀吉が最も得意とした戦術は兵糧攻めなのだそうです。
兵糧攻めをされた城の中は餓死者だらけになり、相手を苦しめながら追い詰めていく非常に残酷な戦術です。
有効な戦術を使って戦果をあげようとひたむき、とも言えれば、冷酷な仕打ちを平気で行う、とも言えます。

低い身分から成り上がった人がなぜこのような戦術や治世を行うのかというと、おそらくは自分のような成り上がりの勢力を恐れているからなのでしょう。
自分の成功体験は裏を返せば、敵がその成功をしたときの恐ろしさをも語るものなのです。
そのような恐ろしさが彼の野心を支えていたのかもしれないのですが、その野心に駆り立てられたために始めたとも言われる朝鮮出兵は失敗に終わります。

明の制圧を目指すほどの野心家で、天才的な智略も持ち合わせていた天下人・豊臣秀吉。
しかし彼は、もしかしたら、常にまだ見ぬ何者かにおびえながら権力を行使していたのかもしれません。
何かを恐れることにより生まれる野心は、果たして本当に人を幸せにするのでしょうか。
今となっては、私たちは想像するしかありません。



さて、莫大な権力と財力を持って、大阪城を築き、天下統一を果たした戦国時代の英雄「豊臣秀吉」について、その生涯を紹介する書籍やホームページは多いです。
そのためここからは、なぞ?が多いとされる豊臣秀吉の生まれ、本当の出生と若い頃の動向について迫って見たいと存じます。

豊臣秀吉が生まれた際の身分

豊臣秀吉は、農民出身であると言うのが、我々が良く知る豊臣秀吉ですが、実際にはどうだったのしょうか?
豊臣秀吉の生年は、これまで1536年とされていましたが、最新の研究では1537年とする説のほうが支持されることが多いようです。
生誕日は天正記の記述や、家臣・伊藤秀盛の願文の記載から1537年(天文6年)2月6日とする説が有力です。
尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区)で、百姓と伝えられる木下弥右衛門と、なか(のちの大政所)の子として生まれたとされています。
ようするに、我々が一般的に知るように百姓の子として、豊臣秀吉は生まれたと言うのが一般的です。
ただし、父親である木下弥右衛門は、足軽として織田信長の父親でもある尾張国の武将・織田信秀に仕えていたという説もあります。
当時の足軽と言うのは、通常は農業をし、戦の時には兵士として参陣する半農半士の足軽・雑兵も多かったので、仮に足軽の子であったとしても、百姓の出であったと言う表現は、あながち間違いではないでしょう。
現存する書状などには木下弥右衛門と言う記載がみられることから、姓名も付かない一般農民ではありません。
姓名があることから、農民と言えども、ある程度地位のある農民(豪農・名主)であったと考えても良いでしょう。
いずれにせよ武士とは呼べないような下級の出から、関白にまでなったので、大出世したことには間違いなさそうです。
テレビドラマや小説などで「日吉丸」と幼少期に呼ばれていたとされるが、この名前は創作であることが確定しています。
豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は、晩年、織田信秀の足軽組頭を勤めたとする説を考えて見ると、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が、織田信長に小者として仕えることになったコネが全く無かった訳ではないと説明が付きます。
足軽大将1名には、足軽組頭(足軽小頭)が数名ついて、足軽組頭は30名前後の足軽を統率したとするのが戦国時代での例です。
現代の軍隊に例えるなら、足軽組頭は「軍曹」のような地位になりますでしょうか?
ただ、誰でも足軽組頭になれると言う訳ではありませんので、こちらからも、木下弥右衛門は農民でも豪農や名主など、みんなをまとめる役にあったか?、そもそもかなり下級の武士だったのか?、合戦で手柄を立てて、足軽組頭になったものと推測できます。
一方、木下と名乗ったのは、木下藤吉郎が「おね」(のちの北政所)と結婚した際、おねの家が木下だったので、その名跡を継いだからだと言う説もありますので、念のため記載しておきます。
要するに、のち天下人にもなった豊臣秀吉の出自が姓名も無い農民ではいささかマズイと言う事で、もともと木下と言う名であったことに、してしまった事も考えられますが、その当たりはもう確かめるすべはありません。

木下藤吉郎は最初、織田信長に仕えていない

1543年に父・木下弥右衛門が亡くなると、母の大政所(本名・なか)は竹阿弥と再婚しました。
しかし、秀吉は義父の竹阿弥と折り合いが悪く、いつも虐待されるなどしたため、家を出る事を決意し、行商などを行って生計を立てつつ駿河国に行ったとされます。
一説によると、豊臣秀吉自身が、織田信長などに仕える前には、針の行商人だったと言います。
他にもイロイロな職業経験が垣間見えますが、針は重くなく、たくさん持ち運びできますし、腐る事も無いので無駄が出ず効率が良い商品です。
要するに、遠方に持って売りに行くのには、もってこいの商売であり、そのような才覚がそもそもあったものと推測できます。

恐らく、木下藤吉郎はイロイロな世の中を見て歩いて見聞を広めつつ、仕官先を探しながら旅を続けたのではないかと考えます。
そして、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、最初から織田信長に仕えたと言う表現は、現在のところ正しくないと言えるでしょう。
最初、木下藤吉郎は松下家の家臣となりました。

1554年?(それより数年前とも)、木下藤吉郎17歳前後のこととされています。
松下氏は松下之綱(松下加兵衛)と言い、今川家の直臣・飯尾氏の配下で、引馬城の支城・頭陀寺城主でした。
要するに今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)の家来として、最初、木下藤吉郎は仕えたようです。
木下藤吉郎はこの松下之綱(松下加兵衛)より、文字・武芸・学問・兵法などを学んだともされています。
それらを考慮すると、正式な家臣と言うよりは、素質を見込まれた若き勉強生と言う存在だったのかも知れません。

城の蔵から物が良く紛失することから、試しに木下藤吉郎に蔵番をさせてみると、木下藤吉郎は「犬」と一緒に番に立ったので、蔵から物が無くなる事が減ったと言う逸話もあります。
ただ、人より優れていると、妬まれると言う事があるように、木下藤吉郎は松下之綱(松下加兵衛)の同僚を敵に回したようです。
松下之綱(松下加兵衛)は惜しみつつも、木下藤吉郎に路銀(30疋=300文約3万円)を渡して、出て行くようにと、追放しました。

事実、織田信長に仕えてからも、織田家中の者は秀吉を快く思っていなかった者が多かったようです。
それだけ露骨に出世欲をむき出しにしていたのかも知れません。
ちなみに、松下之綱(松下加兵衛)は桶狭間の戦いにて、今川義元が討たれたあとは徳川家康に仕えましたが、武田勝頼高天神城を攻めた際、篭城・降伏しています。
そして浪人となったところを、のち、長浜城主にと出世していた羽柴秀吉に召抱えられたようだす。
江戸幕府が開かれると遠江久野藩16000石として松下之綱(松下加兵衛)は大名に取り立てられました。



話を戻しますが、松下氏の元を離れた木下藤吉郎は、仕官を諦めず、このあとすぐに織田信長に仕えるようになったものと推測されています。
しかし、織田信長が仕官を許した経緯は諸説ありハッキリしません。
定説では織田信長の小人頭であった「がんまく一若」の紹介で仕官を願い出たとされています。
いずれにせよ、気性が激しく、一歩間違えれば斬られてもおかしくない、織田信長が仕官を許したのですから、木下藤吉郎の才覚を見抜いての事だったのかも知れません。

木下姓を名乗り始めた時期

松下之綱(松下加兵衛)の世話になる際に、豊臣秀吉は木下姓を名乗っていたとする説に基づいてこれまで記載して参りましたが、実は、木下姓を名乗り始めた時期には諸説あります。
その松下氏に仕える事になった際、「松下」由来である「木下」を名乗るようになっとする、興味深い説もあります。
別の説では、おね(北政所)が元々、木下家であって、結婚した際に木下の家督を継いだ(婿養子)の可能性もあると言います。

蜂須賀小六の全面協力をなぜ得られたのか?

蜂須賀小六(蜂須賀彦右衛門正勝、蜂須賀正勝)は、尾張北東部を拠点にした野武士の棟梁で「川並衆」と呼ばれる約2000人を率いていました。
時には美濃・斎藤氏に協力し、時には織田氏に協力するなど、固定の勢力に属さない、木曽川流域に住む一種の独立勢力です。
この当時、大きな川は国境や領地の境になる場合が多く、その川筋・川域は、どの勢力からも支配されない地帯になることがあります。
そのため、村を出た元農民、罪を犯して逃亡している者など、住むところを失った「ならずもの」が河川敷に集まることが多かったのです。

木曽川でも、恐らくはそのような事情を抱えた烏合の衆が集まり、普段は水運・舟渡しなどを行って生活費を稼いでいたのでしょう。
そして、自衛手段として集団で武装して戦闘もおこなったので「川並衆」として、戦が起こればどこぞやの勢力に、金で雇われて戦に参加すると言う、現代で言えば「傭兵集団」の側面も持ち合わせたのです。
いずれにせよ、織田信長に仕えた木下藤吉郎は、この川並衆・蜂須賀小六の全面協力を得て、1561年(1566年とも)、墨俣に一夜城(墨俣城)を築くのでした。
しかし、まだ若く駆け出しの織田家家臣で、まだ名も知られていない木下藤吉郎の協力要請を、蜂須賀小六はなぜ受けたのでしょうか?
この点を探ると、木下藤吉郎と言う人物像に、より迫ることができます。
まず、少なくとも、木下藤吉郎は、諸国を放浪していた際に、蜂須賀小六と接触し、一時期世話になっていたものと考えられています。
接点がないことには面会すら難しいでしょう。
諸説あるが木下藤吉郎の父・木下弥右衛門は、蜂須賀小六の父・蜂須賀正利に仕えていた可能性も捨てきれません。
家臣ではなくても、元々知り合いだったのかも知れません。
要するに、木下藤吉郎と、蜂須賀小六は古くからお互いを知る間柄であったことが考えられます。
その為、木下藤吉郎の巧みな話術などにより、蜂須賀小六の協力を得る事ができたのでしょう。
いずれによせ、土木工事・利水工事にも強く、操船や山岳戦も得意な川並衆2000人を味方にできると言うことは、この時、木下藤吉郎は数万石の大名と同等の戦力を有していたのと変わらないのです。

墨俣一夜城
 

豊臣秀吉の指は6本だった?

木下藤吉郎(豊臣秀吉)の手は指が1本多い「多指症」だったと、宣教師ルイス・フロイスの記録や、前田利家の回想録「国祖遺言」に記されています。
2種類の書物に記載があるので、事実だった可能性が高いです。
日本人の遺伝的な先天性多指症は、親指がもう1本多いことが多く、豊臣秀吉も同じく、右手の親指が1本多かったとあります。
ある程度、身分もあるような家系であれば、現代でもそうですが、幼いうちに指を切断して5本にします。
しかし、豊臣秀吉は6本のまま大人になったものと考えられます。
織田信長からは「猿」と呼ばれる他に「六ツめ」とも呼ばれていたようです。

よって、幼い頃から、邪道扱いされたり、いじめられたり、子供ながらに気苦労も耐えない中、成長したのだろうと推測できます。
しかしながら、ときには慈悲を受け、必死に生きてきたためか、人を引き寄せる話術を習得しただけでなく、出世して見返してやろうと言う意欲が並みではなかったのが、成功へ繋がったのでしょう。
そのためか?、豊臣秀吉は晩年、子供ができると、自分のように捨てられて・拾われてここまで出世することを願いたいと言うような、「すて(捨て)」「ひろ(拾い)」と言った幼名を子供につけています。

信長公記には、織田信長の慈悲深さが良く分かる「山中の猿」の記載が残されています。
これは、山の中で乞食として暮らす一族がいたのですが、遠い先祖が常盤御前を殺し、その罪により、子孫代々、障害者として生まれるため、村などには住めず、山の中で猿のように乞食として暮らしていたのです。
その恵まれない一族に、織田信長が品物や食料などの生活物資を定期的に与えて、保護する話があります。
要するに、理由があって恵まれない人々を織田信長は保護・支援すると言う、現在で言えば「生活保護」を行っていたので、木下藤吉郎も慈悲を受けて、小者に取り立てられた可能性も捨てきれません。
ちなみに、日本人で、生まれながらに手・指に異常がある確率は出生1000人に対して1.25人程度で、その異常の20%は手の異常とされています。
母親がタバコを吸う女性だと、確率が約1.3倍に上がると考えられているようです。

豊臣秀吉の甲冑

一概には言えないとは思いますが、豊臣秀吉は多くの側室抱えながらも、子供にあまり恵まれなかったと言うのもこのように障害を持っていたからだとする説もあります。

天下人になると多数のアクドイ事も・・

織田信長も比叡山焼き討ちなど、一般的には「惨い」(むごい)ことをいくつか行いましたが、豊臣秀吉も日本で一番の権力を手に入れてからは、それ相応にヒドイことをいくつも行っています。
実の妹・朝日姫(旭姫)を離縁させてまで、実質的な人質として徳川家康の継室に出したり、特に、跡継ぎとなる子が生れてからは色々と目立ち始め「聚楽第の落書き事件」では罪のない町民なども含めて60名を斬首しました。
また、弟・豊臣秀長が亡くなったあとからは更にビトクなっています。
千利休の切腹、関白・豊臣秀次の一族大虐殺、朝鮮半島での残虐行為など、記載しなくても良いでしょう。
その結果もあってか、正義感の強い加藤清正福島正則らと、豊臣政権をなんとか維持したい石田三成大谷吉継らの対立に繋がったと主張する方も多いですが、皆様の意見はいかがでしょうか?

豊臣秀吉は塩漬けにされたのか?

2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」においては、豊臣秀吉が亡くなったことを伏せる為、壺に入れて「塩漬け」にした状態が放送されました。

まず、豊臣秀吉が死去した際の話ですが、朝鮮攻めの最中でもあり、政治不安を避けるため、しばらく伏見城に安置していたと言う話もあります。
また、すぐに埋葬されたと伝わる話しもありますが、いずれも盛大な葬儀はなかったようなので、天下人としては寂しい死だったと言えるでしょう。
大河ドラマや、2017年の映画「関ケ原」では、その死を伏せたと言う説を取ったと言う事になります。
当時に遺骸を保存する場合には、塩漬けにするか、石灰や木炭による腐敗防止を取った訳です。

その後、豊臣秀吉の遺体は江戸時代に盗掘にあっており、また明治時代には発掘調査されています。
その時の話を総合すると下記の通りになります。

・遺体は手を組んで座った状態だった。
・西の方角を向いていた。
・しかし、動かしたら崩れて落ちてしまった。

このように、豊臣秀吉の遺体は白骨化されていると言うよりは、ミイラに近かったのかも知れません。
ちなみに、上杉謙信の場合には、鎧(甲冑)を着せて、蝋と漆を流し込み、密閉された状態と伝わります。

豊臣秀吉の総評

豊臣秀吉が織田信長に仕えるまでの資料を調べているうちに、気がついたことがあります。
それは、木下藤吉郎は少なくとも幼少期から青年期まで、親にはほとんど見捨てられ、現在で言えば中学生・高校生の頃、自分だけの力で、大変苦労して生き抜いたことが良くわかった次第です。
15歳前後より東海地方で士官先を探しますが、元々貧しいので旅費(生活費)がなく、針を売り歩きながらの放浪生活でした。
大きな武家に生まれ、将来がある程度約束されていた織田信長や、徳川家康とは大違いです。
そのように自分一人で解決しなくてはならない環境下であり、自然に商売人の心構えを身に付け、話術・好かれる術を身に着けるに至ったのでしょう。
なるほど、実力もない若造が、様々な実力者の協力を得て、織田家の中で出世して行けたのも納得が行く話になります。
たいていの人物であれば、農民から武家の家臣になり、家禄を得て生活が楽になっただけで、満足してしまうでしょう。
しかし、それに満足せず、誰よりも「もっと」偉くなりたいと言う出世欲には、とても凄まじいものを感じます。
さすがに晩年の悪行は評価できないものの、天下人になるまでの過程に限って見れば、多くの方が素晴らしい行動力だと感じるのではないでしょうか?
私は、これらの事を調べるまで、単に大出世したと言う豊臣秀吉を、余り好きではありませんでした。
しかし、本当は「苦労して出世した」ことがわかり、次第に好意を感じるようになってきております。

豊國神社(大阪城)

大阪城を訪問した際に「豊國神社」(ほうこくじんじゃ)も訪れたので、ここで写真をまじえてご紹介したい。

豊國神社

大阪城にある豊國神社(豊国神社)は、明治天皇が建立の御沙汰を出し、明治12年に大阪府北区中之島に創建されたが、昭和36年になって現在の大阪城・二の丸に遷座した。

豊國神社

太平洋戦争中に鉄材供出された豊臣秀吉像が2007年4月17日に復元された。

豊臣秀吉像

大阪城の観光と共に、多くの外国人観光客も訪れており、出世開運の神様として人気が高い。

秀石庭

社殿の右奥には「秀石庭」と言う庭園もある。
下記は広島・不動院にある豊臣秀吉の遺髪塚だが、遺髪とは言え、豊臣秀吉の墓としては大変貴重な存在となる。

豊臣秀吉遺髪塚

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※トップ画像出典:逸翁美術館



コメント

    • 2016年 7月 09日

    とても良くまとまっており、大変わかりやすい説明、感激しました。
    それにして、豊臣秀吉が生まれて、出世するの出の事は、複数の説もあって、よく分からない事もたくさんありますよね?
    更なる豊臣秀吉も是非、教えてください。

    • 高田哲也
    • 2016年 7月 09日

    猿さま、コメントを賜りまして誠にありがとうございます。
    豊臣秀吉に関しても、更に充実して参りたいと存じます。

    • 興味深く拝見しました
    • 2016年 11月 17日

    多大な被害を生みながらも、わずか5年後の1597年には再び挑戦へ出兵し、慶長の役と呼ばれる戦争を

    挑戦へは朝鮮への、記載ミスかと思います
    ご確認後に本投稿を、削除くださっても構いません。

    • 高田哲也
    • 2016年 11月 17日

    ご指摘を賜りまして、誠にありがとうございます。修正させて頂きました事、ご報告申し上げます。
    また、深く御礼を申し上げます。

    • いくさびと
    • 2019年 1月 13日

    「身分の低いものが天下を掌握すると、強権的なものになりがち」というのは得てしてその通りかと思います。明治維新も似たようなものでしょうか。ただし、それと秀吉本人のパーソナルな能力は別。竹中半兵衛や黒田官兵衛なども「この人なら」と見込んだからこそ尽力したのでしょう。「人たらし」というのは現在では時としてあまりいい意味では使われませんが、人を巻き込む力というのはいつの時代も大切なものです。ご記載の様に秀吉の晩年は暴君といっていいほどの豹変ぶりでした(ただし、利休の切腹については別の見方も考えられます)。成り上がることは決して悪くない、しかしその後、「初心」を忘れずに保てるかどうかで、歴史上の人物の総合的な評価につながっていくのではないでしょうか。

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